『社会学にできること』
- 作者: 西研,菅野 仁
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/11
- メディア: 新書
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社会学ってなんだろう?という大変初歩的なことが知りたくて手に取りました。
地元の図書館の子供向け書架にありましたが、とても面白い本でした。しかも結構難しかった。。。
それはそうと、“社会学よりの哲学者”と“哲学よりの社会学者”である二人の対談形式なのですが、その会話がまず素敵でした。
同じ理想というか動機のようなものを共有しながら、それぞれの専門分野はちょっと違っていて、
でもお互いのそれを映しあうことで、互いが自分の言いたいことをよりよく表現し、相手の言いたいことをよりよく表現させることができる。
そんな特別な場が生まれているなぁと思いました(^-^)
二人が共有していることは「社会の現象学」としての視点、だそうです。
総体としての社会をなるべくそのまま客観的に写し取ろうとする学問としてではなく、
個々人の<いま・ここ>と、生の可能性の条件としての社会とのつながりをとらえ直すための知的技術としての社会学。
「自分と社会をつなげて考える知的見取り図」
「社会への配慮の知的技術」
と表現されていましたが、とてもいいなと思いました。
いくつか印象に残ったことをメモしておきます。
■「わたし」と「社会」のつながりをどのように感じればいいか
社会学の成り立ちを振り返る議論の中で、個人がよい社会について「考えるべき」という時代や、よりよい社会に変えていくことと個人の幸せが直結している時代、があったということは私にとって素朴な発見でした。
とりわけその黎明期、国家や身分や職業が固定的であった時代には個人の身の回りの世界(実存)と社会を分けて考える必要はなく、産業革命によって移動や職業選択の自由が自覚されたときに、その障害となる社会という認識が浮かび上がったということはとても新鮮でした。
個人と社会の分離以降、社会は個人にどのように関わってくるようになったのでしょうか。
人間は社会的な存在であり個人の感受性や価値観も社会の中で形づくられているのだから、社会がよくなれば自分も解放されて、変わって、幸せになれる。というのはマルクスの提示した人間観だったそうですが、確かにそういう「わたし」を形成する圧力としての社会というものもあるような気がします。
そして同じ制度に苦しめられている多くの人たちと連帯の感覚をもつ、というようなことも、ああ、あるな、という感覚はわからないでないです。好きではないですが。
私個人の体験では「社会」はもっと透明なものでした。
それも時代のせいなんだなということもなんとなくわかったのですが。
自分という文化が、自分の外側にあるものの文化に触れて、それを取り込むことで変化していく。
社会と個人の関わりをそのようにとらえるとき、いまの複雑で膨大なネットワークや技術からできている世界は、そこにアクセスすることさえとても難しい。個人の世界は簡単に萎縮させられてしまう。
『社会にはわれわれがつくっているものながら「手に負えない」感がつきまとう』という指摘があったのですが、それ以前に触れることさえ難しい。
「手触り感」が持てない。
子どもを持つことを契機に、社会とつながる、アクセスが開かれる、ということは自分を含めいま大人になっている世代にはすごくあることかなぁと思いました。
そういうつながり方を本の中では「生の可能性の条件」としての社会、と呼んでいます。
「平和ないし安全」のうえに成り立つ、個人の「生計」「愛情」「文化的な活動の悦び」の条件としての社会。
豊かになった社会では「文化的な活動の悦び」が大きな比重をもっていくという見方に共感しました。
この指とまれ、といって自由にサークルをつくり、何かのテーマを媒介にしてつきあったり、何かを創り出したりする悦び。
互いの価値観や考えを交換したり理解しあったりする悦び。
「生計」「愛情」の条件を悪くしないようにメンテナンスしながら、「文化的な活動の悦び」の条件としての社会への変容を起こしていけたらいいなというイメージを何となく持ちました。
■社会の良いイメージ、と<相互作用論的社会観>
ただ批判するのでなく、社会に支えられている部分にも目を向ける。
どのような社会が「われわれ」が望む社会なのかという像を描く。
変えることのできない鉄の檻としての社会ではなく、相互作用で変化していく社会、の像をもつ。
そういうことが、身の回りの世界と社会をつなげるために大切ではないかという指摘がありました。
そういう考え方はうれしいなと思いました。
どうしてうれしいか?
それぞれみんなが自分にとって「いいもの」として受け取ること、そして自分の幸せが社会によって可能になっているということに感謝する気持ち、そういうところからしか出発できないような気がするからでしょうか。
批判から始まる戦いではなくて、ひろーいサークル活動になるといい。
一方で、「われわれ」という感覚をどこまで広く持てるか、にはempathyみたいなものも関係あるかな?と思いました。
また、「人々の生きる条件があんまりきつくなくて、それなりにフェアな社会じゃないとまずいんじゃないか」というくらいのことはみんな考えているんじゃないか、というような表現があったのですが、これは多くの人に了解を得られそうな社会像としてフィット感があるなと思いました。
■<別様の可能性>
ルーマンというひとの提示した考え方のひとつだそうですが、
相互作用で出来上がっている社会には、常に「それ以外の可能性」があって、それを制御することでいまの相互作用の形が成立している。
これはとてもおもしろいですししっくりくるとらえ方だなぁと思いました。
対話とかってそういう可能性を含んだ場として展開しますよね。
本の中では、組織に所属する個人の役割にもこの考え方を展開してみたりもされていたんですがここはとても面白いと思いました。
『それが近代以降の生の不安定性でもあり、自由度でもある。』
複雑な条件に支えられた、様々な可能性のひとつとして、目の前にある関係性。
そういうものをどう扱っていくかという謙虚さと想像力がこれから大切になるような気がします。
■実証的なデータを操作するリテラシー
生きるリアリティを感じるために、<いま・ここ>の身体的感覚を照らし返すために、社会を見る。
そのような「社会への配慮の知的技術」としての社会学に欠かせないのが「実証的なデータを操作するリテラシー」であるとの指摘は目から鱗が落ちる思いでした。
ナルホド。
たとえば、「合計特殊出生率」の1.57ショック(1989年)が話題になったことを取り上げています。
でもこれは15歳から49歳の女性の年齢別の出生率の合計であり、一人の女性が生涯に産む子供の平均数。未婚者も含まれています。2008年で1.37人。
これをもって「今の夫婦は一人しか子供を産まないんだ!」という社会のとらえ方をしてしまうようでは困る、と。
結婚している夫婦の子供の数を知りたいときには「完結出生児数」の数字をみなくてはいけない。(2005年で2.09人)
確かに社会を現象学としてとらえるときに、その「イメージ」は重要です。
メディアから流れてくる情報がどんどん気軽になっていくこれからだからこそ、このリテラシーは重要になってくるでしょう。
「手触り感のもてるよきイメージ」のようなものが個人と社会のしあわせを繋げてくれるなら、そのためのリテラシーとして、チカラとして、わたし自身が磨いていくべきものがこれなのかも。
長文かつ脈絡のないメモになってしまいましたが、いろいろと面白かったので。
素人に社会学への興味をかきたてるに十分な入門書であったなぁと思っています。