いまここノート

いまここの記憶

積ん読解消月間(24)佐藤俊樹『近代・組織・資本主義』

近代・組織・資本主義―日本と西欧における近代の地平

近代・組織・資本主義―日本と西欧における近代の地平

終始小難しいんだけど不思議と読ませます。すごくおもしろーい。でもむずかしい。。。

理解社会学という方法論によって描く「組織」論です。

ひとの社会的な行為は『一般的な解釈図式が存在していて、自分や他人の行為は多くの場合この解釈図式によって理解される、という事実を前提にしている』。

例えば、ある人が働くという行為はその社会なり一般的な解釈があり得て、個々人が本当にその理由に基づいた意図で行動するとは限らないけれど、少なくともそう解釈されるだろうことを理解した上で行動する。

このような解釈図式のモデル(一次モデル)を記述・分析するのが理解社会学だそうです。

「日本的」のひとことで片づけずに、それがどのような解釈図式なのかを、その成立過程や西欧との比較を通じて丁寧に言葉を重ねて読み解いていきます。
とても誠実な態度だと思います(^-^)


まず西欧の近代の一次モデルから。
ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を引きながらの西欧近代についての論考は正直むつかしい話が多くてなかなか読み切れないのですが、
・近代組織の成立を可能にしたのは単純にプロテスタンティズム=禁欲主義ではなく
・個人が自由意志で組織に参加し組織に取り込まれることなく「個人」として存在し続ける、という組織の目的や秩序と個人の自由との関係を発明したから
というようなことが書かれていたように思います。

ホッブス問題(「自由な個人の間にいかにして社会秩序をつくりうるか」)を解決しようと悩み続けていること”が近代西欧の人間観、組織観を表しているという指摘はなるほどでした。そんなことに悩まない社会もたくさんあるわけで。
制度の中での自由だけでなく、制度を選ぶ自由がかなり大きなウェイトをしめているんですね。それは、神の秩序という目に見えない理想がいちばん外側に想定されているからということのようです。


翻って、日本らしさ、日本における近代の個人や組織を特徴づける一次モデルとはなにか。

それは近世における武家と武士の関係の一次モデルの変成として読むことが出来るようです。
武士の時代は「法」を超えた「意地」を見せられることが個体的戦闘者としての有能さの証であった。またその証を立てることの組織・個人双方にとってのメリットが、「法」と「意地」の二つの規範の深い緊張関係のなかで個の自律性が微妙に優先される合理的な理由になっていました。
ところが、平安の世が訪れ、やがて町人優位の経済が発展するにつれて家を移動することが事実上不可能になった。
この、移動できないという現実が先行して、後付けで発明された「自発的に組織に留まる理由」が、日本における近代組織の成立の下地となったフォーマット=一次モデルなのだそうです。

フォーマットの発明にあたって大きな役割を果たしたのが2つの儒学で、ひとつは主従間の愛着を強調しそれに従事することが自己の表現であるとした仁斎学。その論理の裏付けのために「誠意には誠意が返ってくるものだ」という性善説を強調しました。これが「心情の反射作用」と呼ぶべきフォーマットで、「痛みを分かち合う」という社会的な合理性が成立していく土台を提供しました。
もうひとつは、個人の自由意思を野放しにしては危険だとして公私の別をし、欲望を統制するものとしての法の必要性をとなえた徂來学。個人の際限のない欲望を統制する社会、という個人と社会の関係のあり方のフォーマットを提供しました。

このふたつのフォーマットが日本の近代組織が受け入れられた根っこにあるそうです。なるほどー。

このフォーマットにのれば「なぜ勤勉に働くのか」の解釈図式、社会的に承認された理由は「誠実な勤勉さは報われるから」「みなどこかで私生活を犠牲にしているのだから」「組織に留まることがいいことだから」となるでしょうか。


近代資本主義の「組織」や「勤勉に働くこと」の成立の前提となったフォーマットについて西欧と日本を比較すると次のように言えるようです。

西欧は、
・徹頭徹尾「組織への参加の是非を選べる個人」を想定した
・個人が組織の「外」に明確に置かれていた
・個人と秩序の間の問題として理解された
・組織は「秩序・法・ルール」←合意できる秩序を選ぶ

近代日本は、
・「組織を移動できない個人」に組織に留まる理由を与えるために、主従の愛着や誠実さが誠実さで報われるという性善説(「心情の反射作用」)を信じた
・主従間という個人と個人の間の問題として理解された
・組織は「所属する個人の人格の融合体」→揉め事がなく合意している状態が秩序


こうしたフォーマットの上に今の社会があって、自分の行動や価値観が社会に埋め込まれた解釈図式(一次モデル)に左右されているということを自覚するのはなんだか怖いですが大事なことのように思われます。


このような一次モデルを下敷きにした日本社会において、組織を出入りする個人が許容され、またその責任を個人が負う社会に移行していくということはどういうことなのか。
組織のメンバーシップが個人にもたらしていたものが何であり、それがどのように変化していくのか。

個人がリスクを取って選択する「自律性」と、これまで個人と社会や組織の関係を合理化していた心情反射作用に替わる「社会性」、その両方を確立しなければ、私たちは共感への期待を捨てきれないまま、社会を孤独に漂うことになりかねないように思いました。


また、日本社会は「痛みを分かち合う」ことが意思決定基準になっているという指摘がありましたが、それは社会に偏在する「痛み」を理解できる能力が前提にある社会であり、同時にどこかに「痛み」が生じないとアクションがとれない、痛みを予防するように枠組みを作り直すことの難しい社会でもあると。

社会の中に許容される多様性が増していく中で、これまでの構造を問い直し未来を描くということがどれだけ難しい社会なのかということを考えさせられます。


長時間労働やブラック企業についての批判や議論がたくさんありますが、組織に参加しているわたしたち自身も「なぜ勤勉に働くのか」の新しい理由を自分自身の心と言葉で探すこと、また社会に「なぜ勤勉に働くのか」の新しい解釈図式をつくっていくこと、が大切なのではないかなと思いました。

それを無邪気な個人主義に還元せず、広く社会に受け入れられる未来を描く根拠になるようなステークスホルダーや理想像を「具体的に」組み入れることが必要なのかなと。


長くなっただけでちょっと答えが出ませんが、マクロな視野・視点をがつんと突きつけられた感じがしているのでよく考えたいと思います。