いまここノート

いまここの記憶

積ん読解消シリーズ 『安心社会から信頼社会へ』山岸俊男 (1999)

会社の読書会の課題図書。

非常によかったのでメモ。

 

 

 

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)

 

 

 

 

いつまでも継続することが保証された「コミットメント関係」の中にいることで安心が提供されていたのが日本社会の特徴でしたが、そのような関係の安定性による安心の保証が小さくなるにつれ、これからの日本社会では、われわれの一人ひとりが「この場面では相手を信頼してよいのだろうか」ということを考える必要性が大きくなっていくでしょう。
これからの日本社会で人々は、これまでのような外部に対して閉ざされた関係内部で相互協力と安心を追求することでは得られない、新しい機会に直面することになるでしょう。
その際に、日本社会に不信の文化が育っていくことになれば、このような新しい機会をうまく生かして効率的な社会や経済を展開していくための大きな障害になると考えられます。
信頼の文化が育っていくか不信の文化が育っていくかが重要なのは、それが経済や社会の効率的な運営を可能にするかどうかに大きな影響を及ぼすからです。
(はじめに より)
 
「安心」と「信頼」は違う。ということが本書の出発点です。
 
日本的ムラ社会では人々の行動が集団規範によってしばられていたので、相手の行動を予測する上での不確実性が低く、個別に信頼関係を見極めて築く必要性がなくてその意味ではとても省エネ社会でした。
しかしいまはそのような「安心」の集団を維持するコストはあらゆる面で高まっています。40年間の雇用保障ができるビジネスは稀有ですし、選択肢の多い社会で個人が売り渡す「自由」のコストも大きくなっているでしょう。
 
一方で、社会的な不確実性の高まりを認知すると、人は内集団びいきの傾向を強めると筆者は指摘します。外部者は信頼できない、渡る世間は鬼ばかりだと思いやすくなり、内集団の狭い関係性に注意を向けるようになるそうです。
その副作用として、安心の絆から踏み出して、個人対個人として信頼関係を築く社会的知性を磨く意欲や機会を失うことになる。その結果、社会に不信が広まれば人は容易に扇動されやすくなる。筆者はそのようなことを心配しているようです。
怖い傾向だと思います。
 
筆者の長年の研究によれば、「信頼」というのは甘っちょろくてうすぼんやりとした期待などではなく、対人関係を能動的に築こうとし、また人間性をみる能力をともなう社会的知性の高さに関連する態度だそうです。
この結果にはおおいに納得します。私自身個人的な経験から、人を「信頼」する人には覚悟と意思を感じるからです。
 
また筆者は、日本的といわれる集団主義にしろ、「もーれつサラリーマン」や「やる気のないOL」のようなステレオタイプ的行動にしろ、個人の心や好みのせいと考えず、そのような行動を適応的で合理的な選択とさせる社会のしくみの存在を意識すべきと指摘します。
社会活動や経済活動の資本となるソーシャル・キャピタルのひとつである「信頼」が築かれやすい社会的装置を設ける議論が行われることを求めています。
 
この「社会的装置」を考える際には、社会的不確実性を下げる、ということが重要です。
なぜなら社会的不確実性は、個人の内集団びいきを助長するだけでなく、差別や偏見をも助長するからです。
たとえば変化の激しい環境で終身的雇用に相応しい人材を採用するという極めて不確実性の高い状況においては、統計的確率による判断が選択されやすくなります。これを統計的差別といいます。
何らかの方法で社会的不確実性を下げ、雇用者が「賭け」易い環境をつくることで、結果的に労働者の属性ではなく個性を見極める誘引を高めるという方向性が有効であると考えられます。
 
このような社会的不確実性を下げるような社会的装置として著者は、すすんで手の内を明かすような、自発的に情報を開示し、意思決定基準を公開するような、ボランタリーな組織形態が極めて有効であろうと示唆しています。
とても賛成です!
 
どのようにしてそのようなボランタリーな組織形態が生み出され維持されうるのか、それについては今後の検討課題と著者は議論を次の機会に譲ります。
 
本書の刊行から18年、ボランタリーな組織形態のいろんな事例が生まれていると日々実感しています。いま研究させていただいているプロボノも然りですが、営利組織においても様々な実験的挑戦が注目されてきています。
 
失われた「安心」をもとの形のまま取り戻そうとするのではなく、「信頼」にもとづく行動が結果的に「安心」として育つような、そんな社会を創りたいなと思いました。