いまここノート

いまここの記憶

いやならやめてもいい

「参加してもいい、嫌ならやめてもいい」ポジションに留まることって毒そのものだなぁと思ったので、自分を諌めるためのとりとめのないメモ。メモだけど言いわけを断ち切るためにあえて公開。とりとめがないです。

「参加してもいい、嫌ならやめてもいい」。
でも、それってまるで「母親が働くこと」みたい。自由の正体、というだけの話だけど。

ぜんぶほんとの望みなんだけどな。
なのに、経験も知恵も、それを埋める時間も体力もたりないきもち。そしてそれが言いわけだってこともわかってる。

言いわけをする度に傷つくのは自分。
環境にうながされた面はあるとしても、決めたのは自分だもの。
「いやならやめてもいい」
誰にきいたってそんな言葉しか返ってこないと思う。でもやめたいわけじゃない。

だからほんとのほんとにたりないのはきっと、選択と集中、そして腹ぐくり。

だれかに頼ったり力を借りるためにも、本気が必要と感じる。本気の腹ぐくりがないから頼れない。自分ひとりでやれる範囲でやれることを、とまず考えてる。

わたしの履いてるいくつものわらじ。いくつもの中途半端なプロジェクト。
焦らず、自分の心と体に余裕でおさまる分だけにして、あとは手放す。
ほんとに?ほんのひとくち分ずつしか残らないよ。。でも心と体からあふれた分が毒になるくらいなら、そうした方がいいんだろうな。

またはうんと拡げる。だれかとシェアしなくてはやれないプロジェクトにしちゃう。このほうがおもしろいかも(^-^)(でも億劫だな。)

ぐるぐるするばかりで日々が過ぎていく。いったい何がしたくて、何がいやなの?私だって自分に聴きたい。

ふと。私が「親キャリ」という場を、汎用的なテーマを志向する一方で、あえて「親になったわたしたちのための」としてきたのは、自分自身のこういう言い訳の足踏みを、繭に包んでおきたかったからなんだと思います。
親になっても自分自身でいたい。
心に正直でいたい。
自分の足で立っていたい。
それがむずかしい季節にも。

でもそこには「何者にもなれない、ならない」ことへの言いわけが染みついてもいて。
「わたしは十分に強い」
「必要なものはすべてもっている」
にシフトする時機がきているようにも感じます。

でもそう言い放つことがとてもこわい。
自分には何かが欠けていると思いたい。何かが欠けたままでも、1mmも前に進まなくても、それでもいいんだと。いまこの瞬間にもう価値があって、世界は満たされてる。

十分に強くて、決定的に欠けている。
たぶんそれは同じ意味だったりするんだろうけど。

そういう揺らぎをあからさまにすることなく、空気に漂わせておきたかったんですよね。言葉にすれば弱さにしかならないから。

ひとは誰しも弱いもの。助けを求めればいい、助けあえばいい。いまは返せなくても、誰かに恩をおくればいい。
弱さを認めることで恐れを手放せる。
自分には人に渡せるものがないと思いこんでいるから、人から何かを受け取らないようにしている。

どれもきっと正しいんだと思う。

でも簡単に弱音を吐かさせないでほしい。
隙のない姿勢で立っていたい。

そういう気持ちが強すぎるんだろうな。介入されることがとても苦手。
それはあなたのカタルシスであって、私のじゃない。
ほんとうの善意と、善意の顔をしたコントロールをていねいに仕分けする。その両方に心から感謝しても、すべてを受け取る必要はなくて、なにもかもに影響を受ける必要はない。うけとってもだいじょうぶな善意はしっかり心で受け取る。

自分だけで扱える範囲に留めておきたいというVOF(恐れの声)を自覚しつつ、丁寧で自立した在り方でいられたらな。