いまここノート

いまここの記憶

オバサンの向こう側

お盆というのは、社会の慣習のようなものや、各家庭の多様な在り方、男女間(というか、人として)のフェアネスみたいなことを考えさせられる材料が多いなぁと毎年思います。

ここ3年は、お盆休みの直前に北米で開催される学会に参加していたので、そこで感じる文化差のようなことに影響を受ける内省も混ざりあって、毎年多感な季節です。

アメリカはいいなぁとかそんな単純なことは全然なくて、ただ、異文化との接触によって、自分がどっぷりと浸かっている「アタリマエ」を考え直す内省に手を引かれます。

ここ数年、仕事で出張したり、発表したりする機会が増えました。
そういう経験の中で、自分がいかに「オンナコドモ」を演じていたかということを反省しています(君は昔から生意気だったというご意見もあろうかとは思いますがあくまで主観であって当人比です)。

決定権や評価権をひとに譲って、自信や自尊心をもたず、ハイと渡されたルールの決まったゲームの中でうまくやりくりする。
じわじわと損なわれていたのは、主体性であり、自尊心だったなと思います。自分で決めて迷わないこと。
オンナコドモは黙ってろ悪いようにはしないからという箱の中で、どんどん「決める」ことへの無力感を増幅し続けていたような気がします。

でもこの10年、子どもをもつことになり、予防接種の保護者欄にサインをするようになって、リスクを取って判断することの重みを知り、大人への一歩を踏み出せてよかったと私は思っています。
もう世間からも可愛げは期待されないと思うと、堂々とオバサンになれることに果てしない開放感も感じました(君は昔から可愛げなんかなかったというご意見もあろうかとは思いますがあくまで主観であって当人比です)。

そしてこの5年、会社を一時期離れたり、単独行動をして、自分の責任において恥をかいたり、やり直したり、ひと言要求したりするちいさな機会の一つひとつに、少しずつオトナの在り方を学んでいるように思います。自分と他者とを尊重しながら自分で決められるオトナの在り方を。

併せてこの3年、海外のいくつかの都市で感じたのは、若い人のなかにもオバサン的な図々しさがあり、年配の人の中にも茶目っ気や艶があることでした。
オンナコドモとオバサンの断絶を生きなくてもいいことが、とても清々しく感じられました。オトナの男性も女性も、オンナコドモ的な感性をもったまま生きていいと肯定されるような清々しさ。

しかし同時に、活力と人とのつながり、倦怠と孤立に分断されるような大きな格差も感じました。それが教育や経済的な環境の格差によっている部分も大きいように見えます。
オトナとオンナコドモの分断も、経済力の格差が裏打ちしていることを感じます。
経済価値は人の価値ではないし、生産活動や経済的な合理性が何よりも優先されるものではない。かといって、ケア労働の価値を心の中で認めればすべてが解決するという社会でもないところが難しいところだなと。経済的な自立が人権を支える社会であることにも同時に目を向けて、フェアネスを実現することの難しさ。かといって経済価値だけを搾取されるように感じられるとき、労働者の人権が尊重されているともとても思えず。
(すみません、思考が迷走しました。)

たぶん日本に居ても、狭い田舎町でも、一つの会社の中でも、子どもをもたなくても、経験しようと思えば経験できたことなんだろうなと思います。
自分の頭で考えて、失敗しながら決めるちいさな経験を。他者の機嫌や顔色と、自分の存在の尊さは別物であるという信念を。経済的な自立について自分なりに考える機会を。自分の子どもたちを含めた周りの人たちから奪わないために、何ができるかをいつも考えていたいです。