いまここノート

いまここの記憶

「これでいい」のあるところ。しあわせから始める #親キャリ 勉強会シーズン6 第2回勉強会 開催報告

ワークとライフのあいだ。
余白の時間。

親になったわたしたちのためのキャリア勉強会、略して、親キャリ勉強会。
シーズン6第2回勉強会を2018.3.18に開催しました。

(参加者のめいままさんがつくってくださったホームページはこちら!過去の経緯や記録など oyacareer.jimdo.com) 

誰かにとって大切な役割を引き受けながらも、自分のままでいたい。 
親になっても。仕事に打ち込むときも。何かの役割を手放すときも。 

3ヶ月に一度自分のことを考える時間。 
慌ただしいけどたいせつな、いまここをちゃんと感じたい。 
働くことのまわりにある意味をつかまえたい。 

両立の先はひとり旅。 
はたらく意味を紡ぐ旅。 

1年1シーズンを通してのゆるやかなテーマでおしゃべりをして、6シーズン目になりました。 
お互いをたいせつに扱う時間のなかで、ほんとうははなしたかったことをつかまえたい。 
話す、離す、放す。 


「これでいい」のあるところ
今季のゆるやかなテーマは 
『「これでいい」のあるところ』 でした。

「キャリア」のとらえ方や扱い方はそれぞれですが、いろいろと不十分でも、これでいい とその時々に思えていればいいのかなと。
そのひと言が、誰にとってもそれほど簡単ではないからくるしい時もあるのかなと。
そんなふうに湧いてきたテーマでした。


いまここを選んでいるということ
前回は、 
『分かれ道の選び方』 
「えらぶ」ということについてはなしました。 
 
いまここを選んでいるということ、選ぶことと共にある何かに意識を向けてみました。 


ただ、 いまここ があるということ
今回は 
『選んだわけじゃない場所』 

選んだと感じる道があるのと同じように、選ばなかった・選べなかった道がたくさんありますね。 
誰もが、思いもよらなかった道の途中にいるとさえ思います。

今回は、"オランダ"と"マインドフルネス"をキーワードにおしゃべりをしました。


オランダ
人気ドラマで紹介された「オランダへようこそ」という詩があるそうです。
みんなで朗読してみて、感想や、浮かんでくる徒然なる会話をはなしました。

イタリアに移住するはずだったのに、着陸したのはオランダだった。
何も準備ができてない。
泣いてる暇もない、生活しなくては。
世間はイタリアの話題でもちきり。
私も憧れのイタリアに行くはずだったのに。
ふと目を上げるとオランダは美しい場所。
心の痛みは消えない。
オランダもいいところ。

つい惹かれてしまう、いたかも知れなかったもうひとつの世界、イタリア。
思いもよらなかった、いまここ にある世界、オランダ。

みなさんが、それぞれのイタリアとオランダについてはなしてくださいました。

長時間労働から時間制約へ。遠のいた手応えと一体感。
思いもよらない異動・配属。価値基準の違う世界。
事業統合や合併。マイノリティ感を噛み締めているはずの自分が、マジョリティとして括られ線を引かれる。
体力や体調のこと。自分の身体と付き合って行く。

これでよかったんだ、ここもいいところ、と思うのかどうか。
そうとも限らないという正直さが、この詩や、みなさんの話にはあったと思います。そのことを私は好ましく感じました。

一方で、夢に描いたイタリアに行けなければ、もう幸せになれない、ということもない。

ただ、いまここ はオランダだというだけ。
オランダをよく知ることによって、オランダが自分にもたらす変化を受け入れることによって、止まった時間が流れ出すように感じられました。


マインドフルネス
後半は、マインドフルネス、と呼ばれる瞑想についてご紹介しました。

詳しくはこちらをどうぞ。

この書籍におけるマインドフルネスの定義は「意図的に、今の瞬間に、評価や判断とは無縁の形で注意を払うこと」。

いまここ がただ意味もなく在るということに慣れることなのかなぁと。

忌まわしい情動が起こることを防ぐことはできない。
しかし情動は、私自身ではなく、私が経験している生理現象に過ぎない。

I am angry. ではなく
I feel anger in my body.
"執着というのは、心が何かに必死にしがみついて放そうとしない状態を言う。"
"嫌悪は、心が何かを必死に遠ざけ、それに近づくのを拒む状態のことだ。"
イタリアの危機は執着
オランダの危機は嫌悪
とも言えそうですね。

そして嫌になる自分を嫌になる「メタ嫌悪」は、生産的ではない。
硬いブラシで何度もこすって肌が腫れ上がる。
"優しさは、ブラシでこするその有害な行為をそっとやめさせる特性だ。やめさせられれば、やがて肌は回復する。"
マインドフルネスはそういう練習だそうです。
意識の向いている先に気づく練習。
優しい意図を自分と他者、世界に向ける練習。
穏やかで明晰でしあわせな感覚を、こころの泉にたたえる練習。

鍛錬を重ねれば、情動が起こるそばから手放すことができる。水面に書かれた字のごとく。
どんな経験もありのままに味わい、執着と嫌悪をもたなければだいじょうぶ。
"何年にもわたって私を悩ませてきた思考や情動が 、じつはとても弱くはかないこと、そして、小さな問題に執着すると、それが大きな問題となることが、徐々にわかってきた。
静かに座って、自分の思考や情動がどれほどすばやく、多くの点で不合理な形で、現れたり消えたりするかを観察しているだけで、それらが見かけほど堅固でも実体のあるものでもないのがはっきりとわかってきた。
そして、それらが語るように思える物語を信じなくなるにつれて、その向こうにいる「著者」が見えてきた。心そのものの本質である、はてしなく巨大で、はてしなく開かれた意識だ"

こころの基本設定はしあわせ
脳のデフォルトモードはしあわせ感なのだそうです。
瞑想で、こころに浮かぶ評価や判断をそっと保留して、自分をいたわる練習を重ねると、理由もなくしあわせ、という感覚が味わえるそうです。(その状態をスッカというそうです。)

これはほんとうにすばらしいことだなと思いますし、実際そんな気がします。

なんのために生きてるのかなぁとか考えてしまうと答えはないですが、ひとつは気づいたらもう生きてしまっているからで、もうひとつはせっかく生きるならしあわせに生きるということかなぁと思ったりします。

しあわせに生きることが自分にとって一番大事なら、何かの努力と引き換えでなくても、価値を発揮した報酬としてでなくても、人生の果てにでなくて今すぐにでも、しあわせになればいい。
しあわせな気持ちを出発点に、努力や価値にコミットすればいい。
そんなふうにも思います。私にとって大事な順に、順番を並べ換えるだけ。

しあわせ感から始める。

ここに自分がいたり、そこに人がいること、なにかが起こることに、意味づけをし過ぎる必要はなくて。ただ、いまここ がある。次にまた何かが起こる。

何者かになる、達成する、ということに価値を置くのは、数ある価値観のひとつ。だから他の在り方もあっていい。
その価値規範を緩めると自分が、みんなが、がんばらなくなるのでは、これまでのがんばりが無駄に感じられるのでは、といった恐れも十分理解できることです。
でも世界が一夜にして塗り替わるとも限りませんから、しあわせ感にチャンネルを合わせてみて、次に自分が何をするのか、何が起こるのか、試してみてもいいかなと思います。

しあわせ感から出発して、感謝が十分溜まってから、そのこと自体をよろこべる活動に時間を使う。生産的と思います。試してみます。


発酵する親キャリ
今季もリアル/バーチャルにおつきあいくださったみなさま、関心を寄せてくださったみなさま、たのしい時間をありがとうございました(^-^)

自分のしあわせ感、いまここ感にチャンネルを合わせた時、親キャリという場所は何だろう?といつも考えます。
親になって10年。両立の先のひとり旅にも少し味わいが出てきました。

ワークとライフのあいだ。
余白の時間。
ワークの彩りも、ライフの彩りも、「親となっても」では語りきれないほど豊かになってきました。
そろそろ「親キャリ」の看板を降ろす頃かもしれません。

それでも、誰かにとって大切な役割を引き受けつつ、彩り豊かな在り方を自分に許そうとする優しいひとたちとの場所でありたいと思います。なにか他のいい看板がみつかったら架け替えましょう(^-^)

ランチでめいままさんが「雑談」と表現してくださいましたが、言い得て妙です。
雑談の苦手な私にとっては、ここは雑談の場であり、探索の泉であり、友だちそのものです。

なので、ぶらキャリ、ゆらキャリがスピンオフしたことはとてもうれしいです。
意味もなくぶらぶらしてゆらぐ。来季も遊びにいきたいですね。

散歩の合間に雑談の場もホールドしたいと思います。
ワークとライフのあいだ。
余白の時間。
雑談が発酵する場所で、ほんとうははなしたかったことをつかまえる。
話す、離す、放す。

来シーズンはまた春の遠足、ぶらキャリから始めましょうか〜
GW明けすぐくらいかな?