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積ん読解消月間(30)テイラー『〈ほんもの〉という倫理』

「ほんもの」という倫理―近代とその不安

「ほんもの」という倫理―近代とその不安

authenticityを理解したかっただけなのですが、なぜか近代を理解しようシリーズ?が続いています。

小むずかしいトーンですが、この手の本にしては薄めだし読みやすかったです。
テイラーさんが努めて端折ってくれてる様子が端々から感じられます。


■近代の解釈

近代の3つの不安
1)個人主義
 →「選択する」権利を振りかざしてみんな自分のことしか考えなくなる
2)道具主義
 →別の基準で測られるべきことが効率や費用便益で測られる、生きるために大事な目的が出来高の最大化という目的に浸食されていく
3)「穏やかな」専制(トクヴィル)による自由の喪失
 →共通の目的を形成してそれを実行する能力が失われていく

これらを道徳の喪失・逸脱と考えるのではなく、実は〈ほんもの〉authenticityという道徳がそこにはあり、それが上手くいかない場合にそうなってしまうのである。だから全肯定も全否定もせず、よりよく発揮される方向に力づけていくことで世の中はよくなるはずだ。という主張のようでした。
近代にも浅薄さだけでなく、偉大さがある。そういう風に考えてみようじゃないか、と。


■〈ほんもの〉authenticity

〈ほんもの〉authenticityとは、内なる声に従うこと、「自分自身に忠実であれ」ということです。

テイラーはauthenticityを現代の道徳的理想として論じています。
道徳的理想とは『より善い、気高い生き方とはかくのごときものであろうという生のイメージ』のことです。

ではその善い生き方のイメージはどのように堕落し、どのように成功するのでしょうか。


以下は思いっきり超訳しますが、私はこんな風に解釈しました。


■「自分自身に忠実であれ」…自己決定主義やexpressivism(表現主義)が悪循環に陥るとき

すべて自分で考え決めるべきだ、というような考え方や、表現や創造の中で発見される自己がある、という考え方は素敵です。

でも、そこに逸脱や放擲を含む必然性はないのですが、誘惑があります。
また他者を排除したり、依存を極端に避けるような方向にも行きやすいです。
ここに道具主義が入り込むと、出来高の最大化に乗っ取られて、利己的・功利的な自己実現流れていくこともあり得ます。

・自分や身内のことだけ考えて、地域や政治に興味を持たなくなる
・自分自身を何かの手段ととらえるために内なる声が聴こえにくくなる
・その結果、共通の目的を掲げて行動する能力を失い、結果的な専制政治を受け入れることになる

そういうことが起こりうる。

けれども、それぞれが根ざしている「より善い生き方」の土台が間違っているわけではない。
ただ、「自分自身に忠実であれ」ということを狭くとらえるが故に、悪循環してしまっているだけだとテイラーは指摘します。


■良循環にするためには

私とあなたとは違う。ではどのような「違い」を生きることが自分らしさの価値を高めてくれるのか?
そこには意識的・無意識的に選択したなんらかの重要性の意味づけがあるはず。

その意味の文脈を豊かにすることが、〈ほんもの〉の倫理の良循環を生み出すとテイラーは考えているようです。

つまり
・歴史、自然、社会、共同体、他者、そうした自分を超えたところから発せられる要求に耳を傾けること
・重要な他者との対話と交流の中で人生における「善い」ことを体験し、他者から受ける影響と変化を受け入れること
・共同の活動がうまくいく体験によって、民主的な意思形成の権利と能力を自覚すること

このような体験によって、自分のなかの重要性や善のものさしを豊かに、多様にしていくこと。
豊かなものさしに照らして、何に価値があるかを「自分で」決めて行動することで、人は他の誰とも違う存在になり、かつ自分を偽ることなく他者と共生することができるようになる。

善さを信じ取り戻すために善さを経験すること。という主張なので、大変難しいのですが、確かにそれしかないよなぁという気も。
『自由とは闘争なのだ。完全に勝つことはできないが戦線を動かすことはできる』
テイラーは言います。


■で、authenticityへの理解は深まったか?

authenticityというあり方が、善い状態にも悪い状態も転びやすいものであることがわかりました。
また、authenticityが善いものになるには自分を超えるものとの交流(歴史、自然、社会、共同体、他者など)が大事だということも。

内にも外にも、世界を拡げて、そこにある声を聴くことが大事なんですね。

Be authentic!