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いまここノート

いまここの記憶

#親キャリ 勉強会 シーズン5第2回 開催報告

親になったわたしたちのためのキャリア勉強会 略して #親キャリ 勉強会のシーズン5 第2回勉強会を 2016年12月11日に開催しました。

3ヶ月に1度、ほんとうははなしたかったことをつかまえるための場として続けてきて、5年目になりました。
親になっても自分のままでいたい。いいしごとがしたい。
話す、離す、放す。

1シーズンごとにゆるやかなテーマを設けてきました。今年は「ひとり旅の物語」です。
両立の先はひとり旅。
過去と未来の結び目にあるいまここ。
だれかの物語風の旅を味わうことをきっかけに、それぞれのひとり旅が豊かになればといいなと思っています。

いわゆるナラティブ・アプローチの可能性への実感を深めつつ、モノローグからダイアローグに転換・展開する場づくりを意識しています。ここは試行錯誤中です。
そんな中ですが、今回は私が物語を提供させていただきました。貴重な機会をありがとうございました。
ファシリテートしてくれたかなこちゃん、記録係をしてくれたさえさん、開催告知やランチ手配などしてくださっためいままさん、いづみさん、そしてリアル・バーチャルにご参加くださったみなさん、ありがとうございました!

ナラティブ・アプローチ
ナラティブ・アプローチというのは、対人支援の場で実践が深められつつある、セラピーのためのひとつのあり方を指す言葉のようです。
親キャリの場は支援の場ではありませんので、気軽にナラティブ・アプローチなんて言わない方がいいのかもしれません。

ですが、親となってはたらくという特定のシチュエーションに自分ごととして関心をもつひとたちが、聴き合い対話するなかで、どこか相互支援的な、あるいは自己支援的な場として機能している部分があるとも思っています。

その意味で、語り、語りあう場として、よりよくあるためのひとつのヒントとして、ナラティブにまつわる実感値を深めたいなと思っています。

語るということ
ナラティブ・アプローチについては勉強中なのであまり確かなことを言えないのですが、社会構成主義の立場に根ざした対人支援の関わり方を指すようです。

社会構成主義というのは、一人ひとりのひとが生きているのは、客観的な事実に基づく客観的な世界ではなく、何かしらの文化に埋め込まれた言葉を通じて個々人が解釈し再構成した世界である、というような考え方のことです。(ざくっと意訳しました。解釈に違和感あったらその筋の方教えてください。。)

社会構成主義は、誰かのことを理解したいと思ったら、その人が何をどのように解釈しどんな世界として語るのかということを軽視することはできない、という考え方につながります。それはそうだなぁと深く同意します。

一方で厄介だなと思うのは、語るという行為が本質的に回顧的で、「あとづけの理由」であり、また「聞き手が求める正解」に大きく影響を受けることです。
ナラティブ・セラピーでは、専門家の診断によってクライアントが自己を解釈するのではなく、クライアントの「主体性」や「自己決定」を発見することが大事にされているようです。しかし「語る」という行為は何かしらの知的・社会的な価値体系を反映した「言葉」を用いるがゆえに、場に「語らされる」面があり、「誰が決めたのか」を曖昧にしやすい側面がありはしないのかなということが素人考えでは気になっていました。

ですが「語り」が多義的で不安定であることは裏を返せば、語りによる意味づけや、語り直しによる新たな意味の発見が、ひとの未来の行為を変える可能性も多分に含んでいるともいえます。ナラティブ・セラピーもそのような可能性に開いたアプローチと理解しています。

そのように聴く側の安心の場づくり次第、語られた物語への語りあい方次第で、よりよき「いま」や「未来」がその場で生成されうる、ということが、昨今一般に取り組みが活発になっている「対話の場づくり」の核心とも言えるのではないでしょうか。

語り直し(リストーリー)
なんだか難しい話を経由してしまいましたが、端的にいえば、私は個人的に「語ること」に苦手意識をもっていました(^-^)ゞ
言葉を発した瞬間に、すべて嘘のような気がしてしまうから、でしょうか(これも嘘かもしれないです)。

ですがナラティブ・セラピーやダイアローグでうまれる価値や新しい展開というものにも関心はあって、実感値を得たいとも思っていました。なので、自分語りをするといういい機会をいただき、みなさんに感謝しています。

かなこちゃんと事前に相談したときに、聞き手による「語り直し(リストーリー)」によって、語り手/聞き手/対話の場のそれぞれに得るものを創り出せるかも!というアイデアに至りました。

ほんとはもっとそこをじっくりやりたかったんですけれどね。私が長く語り過ぎちゃって、あまり時間が取れなくてすみませんでした!(ほんとごめん。。)

でもこうしてふりかえってみて改めて「語り直し」に可能性を感じています。次回はちゃんとタイムコントロールします。ほんとにごめんなさい。。

私の物語
短い時間の中でも、さすが勘の鋭いみなさんです(ほんとに)、みなさんから多様なリストーリーのフィードバックをいただきました。大切にします。ありがとうございます。
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そして私への贈り物としてリストーリーを呼びかけてくれたかなこちゃんに心からの感謝を。ありがとう!
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語りと語り直しから生まれたもの
まず、語ることへの恐れや抵抗感がだいぶ払拭されました(毎回散々参加者のみなさんに語らせておいていまさらヒドイ話ですが。だからこそ丁寧に場を扱ってきたということで(^-^)ゞ)。
判断を保留した場で、お互いの主体性を信じられる場で、聴いていただけるというのはとても勇気づけられるものなんだなあということを実感しました。

私にとって思いもよらなかったエピソードへの予想しなかった反響が大きかったことにも気づかされることがありました。
例えば「個をあるがままに生かす」「個と組織を生かす」ことをミッションでありビジョンとして語る会社に就職したこと。人事コンサルタントとしての修行期間にたくさんのインタビューや制度設計に関わったこと。
年表に沿って話していったので、もう手放したことについての話が順番的に多くなったきらいはあったのですが、そこに色んな感想をいただいたことは思いもよらないことでした。
気づきには両面あって、そこが私のオリジナルな語るべきルーツかもしれないこと、同時に、私にとってもう語らなくてもいいことかもしれないこと。どちらなのか、いまはまだわかりません。

また、私は何度もがっつり休職しておまけに今も大学院に通ったりしつつ社内の異動も多い方だったり。何者でもないまま流れる物語、越境の物語として語った側面について、私自身よりも的確な表現での語り直し、または映像つきの豊かな語り直しもたくさんいただきました。
それは間違いなくその瞬間までの私が大事にしてきて、世間への言い訳として生きてきた物語でした。
それなのに、同時にいまここにいる私は、流れる人生の物語に矛盾する願いを抱き始めてもいます。何者かになって、居場所を得て、ひとの役にも立ちたい。
もしかしたらそのコントラストが、いまここの意味を深くしてくれたかもしれません。「語り終える」ということの意味がもしかしたらあったのかもしれません。みなさんに大事に読んでいただいたから、初めて次のページに進めるのかもしれません。
(ナラティブ・セラピーでいうところの、ドミナントストーリーの外在化、オルタナティブストーリーの発見、でしょうか。ナラティブすごい(^-^)おなじみのキャリアのトランジション理論でいうとブリッジズの、何かが終わる/ニュートラルゾーン/何かが始まる、かも)

そんなこんなで
かなこちゃんやみなさんに胸をお借りして語ってみてほんとによかったです。
ありがとうございました。
ふらふらといつまでも子どものままだった私がこうして何かの役に立ってもいいと思えるようになったことは、親キャリの場を通じてみなさんから少しずつ学んできたことの結果でもあり、いまこうしてそのことを言葉で自覚化できたことにかなり驚いていて、心から感謝しています。

私の発達を歯がゆく待ってくれていた人たちにも感謝しています。お待たせしました。ちゃんとおとなになりますね。

次回の物語もまた新しくたのしみです!