卒園式が泣ける理由
テレワークの日はなるべく休憩を意識的に取ろう!
そのバロメーターとして、つまらない内容でもいいから日記を書くことにしよう~
と思い立ったのが昨年10月。それ以降、お昼に日記を書いたのは3回目なので、あまり自律的なテレワークライフが送れているとは言えなさそうです。がんばろう。
というわけで、先週は次女の通ってきた保育園の卒園式でした。
「2回目だから段取りもばっちりだよね!」と先生に言われたり、同じ2人目のお母さんからは「もうこれで保育園来ないと思うと前回より泣けるよね」と言われたり。
私自身が歴史上自分の卒業イベントで泣けない方だったので、今回もどうかなぁ、みんなはどうして涙できるのかなぁ、私の感涙ポイントってどこなんだろうなぁと自分のココロの動きを興味深く観察した一日でした。(素直に泣けばいいのにね)
「こんなに大きくなってくれてうれしいよ」
先生方がとっても素敵な式次第にしてくださっていて、証書授与のあとは本人が将来の夢を宣言、そのあと歩いてきて親に証書を渡してくれて親からひとこと、という一人ひとりのためのセレモニーでした。
(こういう先生の心遣いをありがたいと思う気持ちは、素直に感涙ポイントかも)
先生が「涙は連鎖しますからね!ハンカチ持ってね!」と式の前に声をかけてくれましたが、私自身はそういうのは割と平気…。涙ながらにコメントする親御さんももちろん多くてうらやましい…。
がんばったね、ありがとう、などの言葉が続く中で、「こんなに大きくなってくれてうれしいよ」と声をかけたお母さんの言葉が印象に残りました。ほんとにそうだなぁ。それがなにより一番うれしい。無事に育ってくれて。自分でものを考えるようになって。
(でもそれは毎日のように感動することだったりもして改めて節目感は薄いかも。)
私は「卒園おめでとう。次女ちゃんが大好きです」と声をかけました。
「ずっと見守っているよ」
そうだった。3年前も、私にとって最大の感涙イベントは園長先生の言葉だった、と、先生のお話が始まった瞬間思い出しました。
子どもたちへ。
「先生たちは、みんなのことをずっと大事に思っています。みんなが大きくなって、お父さんやお母さんになるまでずっとずーっと。」
そして親たちへ。
「育児しながらのお仕事は大変でしたよね。泣いている子どもの手を振り切って出かける日もあったと思います。電話が鳴るたびに保育園かな?と思ったり、今日だけは熱を出さないで!と願った日もあったと思います。」
先生たちは、私たち親のことも見守っていてくれました。
子どもの健やかさを第一に思う専門家の立場から、私たち親の健やかさをとっても大事に考えてくれているのが伝わってきました。
仕事が忙しくて毎日のように閉園ぎりぎりのお迎えになっていることを園長先生に謝ったときも、しんどい時だね、ママは大丈夫?と声をかけてくださいました。大丈夫じゃなかったから、ちょっぴり泣けちゃいました。
3年前を思い出すと、長女の初めての小学校入学を前にして、この後ろ盾を失う心細さでいっぱいだったなぁと。子どもよりも、自分の方が、保育園の存在感に頼って支えてきたきもちを独り立ちさせるのに苦労しました。
(蓋を開けてみれば子どもがすごく頼もしく成長していたし、学童クラブの先生も学校の先生も素敵な人たちで、思ったよりも支えの多い日々でしたが。)
失おうとしているのは「居場所」なんだ
先生方は、私の知らない子どもの顔を知ってくれていたと思います。大人とのコミュニケーションや友達との関係も、親がいない場所でしか見せない顔がいっぱいあるはず。そこを知ってくれて、基本的にはよい方向に向かって伸びていくように考えてくれる人が居る。こんなありがたいことはないと思います。私の場合はそのことがそのまま、社会への信頼感につながったし、子育てを楽しいものと感じる気持ちにつながりました。
ただただその子の個性、持ち味や偏りを知ってくれている人がいるということ。その場でしかうまれない関係性があるということ。そういうのが「居場所」なんだなぁと。
形式化された知識やスキルの教育は「買う」こともできるけれど、「居場所」はそうじゃない。こういうありがたい場所や関係性が健全にあり続けるために何ができるかを考えながら、お金を払ったり、感謝やうれしいきもちを伝えたり、意見を言ったり協力したりしていきたいなと思いました。
「居場所」、大人にも必要ですよね。仕事上の役割や、家庭での役割を脱いで、素の自分をみてくれる人や出せる場所。もしかしたら完全な「素」は難しいので、いくつもの顔で、他の場所での役割からは「はみ出す」ような自分でいられる場所を複数もてるのが幸せなのかもしれませんね。これからの平均寿命100歳ライフで、関係性は資源ではなく、目的になると思います。
改めておめでとう
そんな不純なことを考えながら、卒園式、謝恩会と一日過ごした次女ちゃんとの帰り道。
担任の先生が、どんなふうにこの一年間、子どもたちに語りかけ、働きかけ、クラスを創ってくれたかも、折に触れて話を聴いてきたので知っていました。
そして、謝恩会の合間にお話をして、そんな先生との関わりで昨年の4月から最近にかけて彼女の発する言葉が変わってきたこと、それでも変わらない彼女のスタイルに「負けた」と思って先生の方が学んだこともあったともお聴きしました。
そうだよね、次女ちゃんが自分で努力した末の卒園ではないけど、この一年の、そして園に通った五年間の、一期一会の成長があったんだよね。と。
そんな帰り道。
なんだかしみじみと、卒園っておめでたいことなんだなぁという気持ちが湧いてきて。
彼女は先生たちのそんなありがたい関わりも、先生はこわいとこもある、くらいでたぶんよくわかってなくて。ずっと心のどこかで覚えてくれていて心では見守ってくれるとしても、先生にはたぶんもうなかなか会えることはなくて。そして彼女は多くのことを忘れてしまう。
卒園ソングが泣けるのはそういうことかもしれないですね。忘れないよ、と歌っても、彼女たちは忘れてしまう。そのことを温かく知っている大人だから流れる涙。
次女ちゃん、改めて「卒園おめでとう」。心から(^^)