いまここノート

いまここの記憶

オバサンの向こう側

お盆というのは、社会の慣習のようなものや、各家庭の多様な在り方、男女間(というか、人として)のフェアネスみたいなことを考えさせられる材料が多いなぁと毎年思います。

ここ3年は、お盆休みの直前に北米で開催される学会に参加していたので、そこで感じる文化差のようなことに影響を受ける内省も混ざりあって、毎年多感な季節です。

アメリカはいいなぁとかそんな単純なことは全然なくて、ただ、異文化との接触によって、自分がどっぷりと浸かっている「アタリマエ」を考え直す内省に手を引かれます。

ここ数年、仕事で出張したり、発表したりする機会が増えました。
そういう経験の中で、自分がいかに「オンナコドモ」を演じていたかということを反省しています(君は昔から生意気だったというご意見もあろうかとは思いますがあくまで主観であって当人比です)。

決定権や評価権をひとに譲って、自信や自尊心をもたず、ハイと渡されたルールの決まったゲームの中でうまくやりくりする。
じわじわと損なわれていたのは、主体性であり、自尊心だったなと思います。自分で決めて迷わないこと。
オンナコドモは黙ってろ悪いようにはしないからという箱の中で、どんどん「決める」ことへの無力感を増幅し続けていたような気がします。

でもこの10年、子どもをもつことになり、予防接種の保護者欄にサインをするようになって、リスクを取って判断することの重みを知り、大人への一歩を踏み出せてよかったと私は思っています。
もう世間からも可愛げは期待されないと思うと、堂々とオバサンになれることに果てしない開放感も感じました(君は昔から可愛げなんかなかったというご意見もあろうかとは思いますがあくまで主観であって当人比です)。

そしてこの5年、会社を一時期離れたり、単独行動をして、自分の責任において恥をかいたり、やり直したり、ひと言要求したりするちいさな機会の一つひとつに、少しずつオトナの在り方を学んでいるように思います。自分と他者とを尊重しながら自分で決められるオトナの在り方を。

併せてこの3年、海外のいくつかの都市で感じたのは、若い人のなかにもオバサン的な図々しさがあり、年配の人の中にも茶目っ気や艶があることでした。
オンナコドモとオバサンの断絶を生きなくてもいいことが、とても清々しく感じられました。オトナの男性も女性も、オンナコドモ的な感性をもったまま生きていいと肯定されるような清々しさ。

しかし同時に、活力と人とのつながり、倦怠と孤立に分断されるような大きな格差も感じました。それが教育や経済的な環境の格差によっている部分も大きいように見えます。
オトナとオンナコドモの分断も、経済力の格差が裏打ちしていることを感じます。
経済価値は人の価値ではないし、生産活動や経済的な合理性が何よりも優先されるものではない。かといって、ケア労働の価値を心の中で認めればすべてが解決するという社会でもないところが難しいところだなと。経済的な自立が人権を支える社会であることにも同時に目を向けて、フェアネスを実現することの難しさ。かといって経済価値だけを搾取されるように感じられるとき、労働者の人権が尊重されているともとても思えず。
(すみません、思考が迷走しました。)

たぶん日本に居ても、狭い田舎町でも、一つの会社の中でも、子どもをもたなくても、経験しようと思えば経験できたことなんだろうなと思います。
自分の頭で考えて、失敗しながら決めるちいさな経験を。他者の機嫌や顔色と、自分の存在の尊さは別物であるという信念を。経済的な自立について自分なりに考える機会を。自分の子どもたちを含めた周りの人たちから奪わないために、何ができるかをいつも考えていたいです。

A Spoonful of Sugar 「働き方改革」に加えたい、ひと匙の魔法

In every job that must be done
There is an element of fun
You find the fun and snap!
The job's a game
やらなくちゃいけないどんなお仕事にも楽しめる要素があるものよ。
それを見つけて指をならすの。
お仕事はゲーム。

映画『メリーポピンズ』をレンタルして家で観ました。
昨夏、飛行機の中で『ウォルト・ディズニーの約束』を観てからずっと観たかったので、やっと(^-^)

言わずと知れた名作なんですが、観る機会がこれまでありませんでした。
きっと何かの魔法で今日まで大事にとってあったに違いありません...

Bitter な仕事にひと匙のお砂糖を。 
Just a spoonful of sugar helps the medicine go down
In a most delightful way
ひと匙のお砂糖で、お薬も楽に飲める。
とっても楽しいやり方で。

仕事を楽しくするひと匙のお砂糖ってどんなものでしょうね。
歌いながら巣を作るコマドリ
蜜を味見しながら集めるハチ。
それが仕事を捗らせ、退屈させないことを知っているから。

ウォルト・ディズニーの約束』を観ていたので、このお話はメリーのおかげで仕事人間で厳格な父親が優しくなって子どもたちよかったねのお話ではないんだとわかります。

よく言われるように、「困った人は、困っている人」。
冷たいお金に囲まれて、困っても相談する相手もいないミスター・バンクスには助けがいる。魔法のひと匙が...

ミスター・バンクスがメリーに子どもたちを「甘やかす」なと苦言を呈する場面、"sugar"という単語が使われていたようです。聞き違いでなければ。
もしかしたら、大人も仕事で自分を、他の人たちを、ひと匙分「甘やかす」とたのしくなるのかも。

たのしい気持ち、優しい気持ちを仕事に持ち込んじゃった方が仕事も捗る。
みんな幸せになる。

そんなお話ではないかと思いました。
原作も読んでみようかな。

風にのってきたメアリー・ポピンズ (岩波少年文庫)

風にのってきたメアリー・ポピンズ (岩波少年文庫)

「働き方改革」も「ワーク・ライフ・バランス」も、こんな delightful way で進むといいのになと。
仕事を捗らせるために、自分も他の人も「甘やかす」ひと匙のお砂糖。どんな仕事も楽しく、しあわせなものになる。
どうでしょうか。

たぶんそのヒントは、煙突掃除屋さんと握手すること、セントポール寺院で鳩の餌を売るおばあさんに2ペンスを渡すこと、重役会議で不思議な呪文を唱えること。

ちなみに私、本業ではこの「ひと匙のお砂糖」を研究しています(^-^)

「ジョブ・クラフティング」と呼ばれる仕事の境界の変更が、どんなときに起こって、仕事の経験を豊かにするかを研究しています。
水とパンを、紅茶とケーキに変える魔法のひと匙。

本業外の社会貢献活動(プロボノなど)への参加がジョブ・クラフティングを促進するかも?それはなぜ?ということを調べたりしています。
こちらはまだ途中段階で、今週末も同じ題材で発表してくる予定)

ジョブ・クラフティングとは?
提唱者グループのHBRへの寄稿
ジョブ・クラフティング法
「やらされ感」のある仕事をやりがいある仕事に変える

ジョブ・クラフティングの簡易な用語説明や記事も増えてきましたが、ただどれも私の理解・解釈している範囲では、本来の概念の趣旨と少しズレているように思われます。

がっつり本格派の方は高尾先生のレビューをぜひ参照されてください。

卒園式が泣ける理由

テレワークの日はなるべく休憩を意識的に取ろう!

そのバロメーターとして、つまらない内容でもいいから日記を書くことにしよう~

と思い立ったのが昨年10月。それ以降、お昼に日記を書いたのは3回目なので、あまり自律的なテレワークライフが送れているとは言えなさそうです。がんばろう。

 

というわけで、先週は次女の通ってきた保育園の卒園式でした。

「2回目だから段取りもばっちりだよね!」と先生に言われたり、同じ2人目のお母さんからは「もうこれで保育園来ないと思うと前回より泣けるよね」と言われたり。

私自身が歴史上自分の卒業イベントで泣けない方だったので、今回もどうかなぁ、みんなはどうして涙できるのかなぁ、私の感涙ポイントってどこなんだろうなぁと自分のココロの動きを興味深く観察した一日でした。(素直に泣けばいいのにね)

 

「こんなに大きくなってくれてうれしいよ」

先生方がとっても素敵な式次第にしてくださっていて、証書授与のあとは本人が将来の夢を宣言、そのあと歩いてきて親に証書を渡してくれて親からひとこと、という一人ひとりのためのセレモニーでした。

(こういう先生の心遣いをありがたいと思う気持ちは、素直に感涙ポイントかも)

 

先生が「涙は連鎖しますからね!ハンカチ持ってね!」と式の前に声をかけてくれましたが、私自身はそういうのは割と平気…。涙ながらにコメントする親御さんももちろん多くてうらやましい…。

がんばったね、ありがとう、などの言葉が続く中で、「こんなに大きくなってくれてうれしいよ」と声をかけたお母さんの言葉が印象に残りました。ほんとにそうだなぁ。それがなにより一番うれしい。無事に育ってくれて。自分でものを考えるようになって。

(でもそれは毎日のように感動することだったりもして改めて節目感は薄いかも。)

私は「卒園おめでとう。次女ちゃんが大好きです」と声をかけました。

 

「ずっと見守っているよ」

そうだった。3年前も、私にとって最大の感涙イベントは園長先生の言葉だった、と、先生のお話が始まった瞬間思い出しました。

子どもたちへ。

「先生たちは、みんなのことをずっと大事に思っています。みんなが大きくなって、お父さんやお母さんになるまでずっとずーっと。」

そして親たちへ。

「育児しながらのお仕事は大変でしたよね。泣いている子どもの手を振り切って出かける日もあったと思います。電話が鳴るたびに保育園かな?と思ったり、今日だけは熱を出さないで!と願った日もあったと思います。」

 

先生たちは、私たち親のことも見守っていてくれました。

子どもの健やかさを第一に思う専門家の立場から、私たち親の健やかさをとっても大事に考えてくれているのが伝わってきました。

仕事が忙しくて毎日のように閉園ぎりぎりのお迎えになっていることを園長先生に謝ったときも、しんどい時だね、ママは大丈夫?と声をかけてくださいました。大丈夫じゃなかったから、ちょっぴり泣けちゃいました。

 

3年前を思い出すと、長女の初めての小学校入学を前にして、この後ろ盾を失う心細さでいっぱいだったなぁと。子どもよりも、自分の方が、保育園の存在感に頼って支えてきたきもちを独り立ちさせるのに苦労しました。

(蓋を開けてみれば子どもがすごく頼もしく成長していたし、学童クラブの先生も学校の先生も素敵な人たちで、思ったよりも支えの多い日々でしたが。)

 

失おうとしているのは「居場所」なんだ

先生方は、私の知らない子どもの顔を知ってくれていたと思います。大人とのコミュニケーションや友達との関係も、親がいない場所でしか見せない顔がいっぱいあるはず。そこを知ってくれて、基本的にはよい方向に向かって伸びていくように考えてくれる人が居る。こんなありがたいことはないと思います。私の場合はそのことがそのまま、社会への信頼感につながったし、子育てを楽しいものと感じる気持ちにつながりました。

ただただその子の個性、持ち味や偏りを知ってくれている人がいるということ。その場でしかうまれない関係性があるということ。そういうのが「居場所」なんだなぁと。

 

形式化された知識やスキルの教育は「買う」こともできるけれど、「居場所」はそうじゃない。こういうありがたい場所や関係性が健全にあり続けるために何ができるかを考えながら、お金を払ったり、感謝やうれしいきもちを伝えたり、意見を言ったり協力したりしていきたいなと思いました。

 

「居場所」、大人にも必要ですよね。仕事上の役割や、家庭での役割を脱いで、素の自分をみてくれる人や出せる場所。もしかしたら完全な「素」は難しいので、いくつもの顔で、他の場所での役割からは「はみ出す」ような自分でいられる場所を複数もてるのが幸せなのかもしれませんね。これからの平均寿命100歳ライフで、関係性は資源ではなく、目的になると思います。

 

改めておめでとう

そんな不純なことを考えながら、卒園式、謝恩会と一日過ごした次女ちゃんとの帰り道。

担任の先生が、どんなふうにこの一年間、子どもたちに語りかけ、働きかけ、クラスを創ってくれたかも、折に触れて話を聴いてきたので知っていました。

そして、謝恩会の合間にお話をして、そんな先生との関わりで昨年の4月から最近にかけて彼女の発する言葉が変わってきたこと、それでも変わらない彼女のスタイルに「負けた」と思って先生の方が学んだこともあったともお聴きしました。

そうだよね、次女ちゃんが自分で努力した末の卒園ではないけど、この一年の、そして園に通った五年間の、一期一会の成長があったんだよね。と。

そんな帰り道。

なんだかしみじみと、卒園っておめでたいことなんだなぁという気持ちが湧いてきて。

 

彼女は先生たちのそんなありがたい関わりも、先生はこわいとこもある、くらいでたぶんよくわかってなくて。ずっと心のどこかで覚えてくれていて心では見守ってくれるとしても、先生にはたぶんもうなかなか会えることはなくて。そして彼女は多くのことを忘れてしまう。

卒園ソングが泣けるのはそういうことかもしれないですね。忘れないよ、と歌っても、彼女たちは忘れてしまう。そのことを温かく知っている大人だから流れる涙。

 

次女ちゃん、改めて「卒園おめでとう」。心から(^^)

2016年ふりかえりメモ

2016年もあとほんのすこし。
今年も助けてくださったみなさん、ありがとうございました。

どんないちねんだったかなぁとふりかえりをしたときのメモを眺めながらのまとめメモです。

継続は力
毎日少しだけ。
音階練習と練習曲をひとつずつ。
瞬間英作文と英文法のアプリをひとつずつ。
腹筋を5回とか少しずつ。

2016年は楽器と英語と健康に少しずつ心と時間を使いました。

楽器はおかげで数年ぶりにオーケストラの演奏会に出られたので、ハナマル。
英語はきっといつか芽がでると信じてマル。
運動はうっかり忘れてしまうことが多くてさんかく。来年は運動したいです。

趣味があってこそ人生
自分で自分をたのしませることができる大人に戻らなくちゃなぁと。
子育てにとられる物理的な手が少しずつはなれてきて、子どもに楽しませてもらうこと、時間を埋めてもらうことから少しずつ卒業していく予感がしています。

いつか、たのしい人生だったなぁと振り返るためには趣味はだいじかなぁと。

たとえば楽器演奏の技術、音楽をたのしむ感性と余裕、一緒に弾いてくれる人たちとのつながり。少しずつ取り戻していきたいし、あたらしいたのしみの習慣も時間をかけてつくっていきたいです。来年はオケはまたお休みかなと思うので。基礎練は続けます。

書くことで前に進む
テーマのある文章をかくと、そのものの出来栄えはともかく思考が前に進んだり、課題が見えたり、関心を共有できたりするものですね。
今年は研究のための情報収集過程をレポート記事にする機会をいくつかいただいて、とてもありがたかったです。感謝。

来年は学会発表だけでなく、投稿論文もがんばります。
組織論テーマでブログエントリーもできたらなと思います。

探索から実践へ
2013年くらいから少しずつ探索してきたテーマ、ご縁をいただいてきたつながりが、少しずつ熟して、結晶化されることを望んでいる気配が濃くなってきた一年でした。

この流れを澱ませてはいけないんだろうな。まだまだ力不足です。恐れを乗り越えてがんばります。

心中の獣を飼い慣らす
復職後のこの1年半、不安や自信のなさや覚悟の浅さが恐れや卑屈さを呼んで、助けてくれようとするひとたちの手をむしろ遠ざけるようなことが多かったような気がしています。

このところ、やっと仕事の環境にも慣れてきました。これまでの15年、異動や休職が多くて、未熟者・新参者から抜け出すほどの期間、ひとつの仕事をすることがありませんでした。ここからは、今さらながらの未体験領域です。

来年は、いつでも安心したきもちから始めて、ひとりでは行けない場所も覗きにいきたいと思います。

『自信とは何か、自信との付き合い方』
2年前の勉強会テーマですが、いまになって改めて意味がわかることもあるような気がしてきました。

イムリーに、今後も助けになってくれそうな本との出会いもありました。
『Search Inside Yourself』
サーチ・インサイド・ユアセルフ ― 仕事と人生を飛躍させるグーグルのマインドフルネス実践法

サーチ・インサイド・ユアセルフ ― 仕事と人生を飛躍させるグーグルのマインドフルネス実践法


2017年はこつこつと地味に努力したいと思います。個人的なメモですが、思ったより長くなりました。年越しちゃいました。本年もよろしくお願いいたします。

#親キャリ 勉強会 シーズン5第2回 開催報告

親になったわたしたちのためのキャリア勉強会 略して #親キャリ 勉強会のシーズン5 第2回勉強会を 2016年12月11日に開催しました。

3ヶ月に1度、ほんとうははなしたかったことをつかまえるための場として続けてきて、5年目になりました。
親になっても自分のままでいたい。いいしごとがしたい。
話す、離す、放す。

1シーズンごとにゆるやかなテーマを設けてきました。今年は「ひとり旅の物語」です。
両立の先はひとり旅。
過去と未来の結び目にあるいまここ。
だれかの物語風の旅を味わうことをきっかけに、それぞれのひとり旅が豊かになればといいなと思っています。

いわゆるナラティブ・アプローチの可能性への実感を深めつつ、モノローグからダイアローグに転換・展開する場づくりを意識しています。ここは試行錯誤中です。
そんな中ですが、今回は私が物語を提供させていただきました。貴重な機会をありがとうございました。
ファシリテートしてくれたかなこちゃん、記録係をしてくれたさえさん、開催告知やランチ手配などしてくださっためいままさん、いづみさん、そしてリアル・バーチャルにご参加くださったみなさん、ありがとうございました!

ナラティブ・アプローチ
ナラティブ・アプローチというのは、対人支援の場で実践が深められつつある、セラピーのためのひとつのあり方を指す言葉のようです。
親キャリの場は支援の場ではありませんので、気軽にナラティブ・アプローチなんて言わない方がいいのかもしれません。

ですが、親となってはたらくという特定のシチュエーションに自分ごととして関心をもつひとたちが、聴き合い対話するなかで、どこか相互支援的な、あるいは自己支援的な場として機能している部分があるとも思っています。

その意味で、語り、語りあう場として、よりよくあるためのひとつのヒントとして、ナラティブにまつわる実感値を深めたいなと思っています。

語るということ
ナラティブ・アプローチについては勉強中なのであまり確かなことを言えないのですが、社会構成主義の立場に根ざした対人支援の関わり方を指すようです。

社会構成主義というのは、一人ひとりのひとが生きているのは、客観的な事実に基づく客観的な世界ではなく、何かしらの文化に埋め込まれた言葉を通じて個々人が解釈し再構成した世界である、というような考え方のことです。(ざくっと意訳しました。解釈に違和感あったらその筋の方教えてください。。)

社会構成主義は、誰かのことを理解したいと思ったら、その人が何をどのように解釈しどんな世界として語るのかということを軽視することはできない、という考え方につながります。それはそうだなぁと深く同意します。

一方で厄介だなと思うのは、語るという行為が本質的に回顧的で、「あとづけの理由」であり、また「聞き手が求める正解」に大きく影響を受けることです。
ナラティブ・セラピーでは、専門家の診断によってクライアントが自己を解釈するのではなく、クライアントの「主体性」や「自己決定」を発見することが大事にされているようです。しかし「語る」という行為は何かしらの知的・社会的な価値体系を反映した「言葉」を用いるがゆえに、場に「語らされる」面があり、「誰が決めたのか」を曖昧にしやすい側面がありはしないのかなということが素人考えでは気になっていました。

ですが「語り」が多義的で不安定であることは裏を返せば、語りによる意味づけや、語り直しによる新たな意味の発見が、ひとの未来の行為を変える可能性も多分に含んでいるともいえます。ナラティブ・セラピーもそのような可能性に開いたアプローチと理解しています。

そのように聴く側の安心の場づくり次第、語られた物語への語りあい方次第で、よりよき「いま」や「未来」がその場で生成されうる、ということが、昨今一般に取り組みが活発になっている「対話の場づくり」の核心とも言えるのではないでしょうか。

語り直し(リストーリー)
なんだか難しい話を経由してしまいましたが、端的にいえば、私は個人的に「語ること」に苦手意識をもっていました(^-^)ゞ
言葉を発した瞬間に、すべて嘘のような気がしてしまうから、でしょうか(これも嘘かもしれないです)。

ですがナラティブ・セラピーやダイアローグでうまれる価値や新しい展開というものにも関心はあって、実感値を得たいとも思っていました。なので、自分語りをするといういい機会をいただき、みなさんに感謝しています。

かなこちゃんと事前に相談したときに、聞き手による「語り直し(リストーリー)」によって、語り手/聞き手/対話の場のそれぞれに得るものを創り出せるかも!というアイデアに至りました。

ほんとはもっとそこをじっくりやりたかったんですけれどね。私が長く語り過ぎちゃって、あまり時間が取れなくてすみませんでした!(ほんとごめん。。)

でもこうしてふりかえってみて改めて「語り直し」に可能性を感じています。次回はちゃんとタイムコントロールします。ほんとにごめんなさい。。

私の物語
短い時間の中でも、さすが勘の鋭いみなさんです(ほんとに)、みなさんから多様なリストーリーのフィードバックをいただきました。大切にします。ありがとうございます。
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そして私への贈り物としてリストーリーを呼びかけてくれたかなこちゃんに心からの感謝を。ありがとう!
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語りと語り直しから生まれたもの
まず、語ることへの恐れや抵抗感がだいぶ払拭されました(毎回散々参加者のみなさんに語らせておいていまさらヒドイ話ですが。だからこそ丁寧に場を扱ってきたということで(^-^)ゞ)。
判断を保留した場で、お互いの主体性を信じられる場で、聴いていただけるというのはとても勇気づけられるものなんだなあということを実感しました。

私にとって思いもよらなかったエピソードへの予想しなかった反響が大きかったことにも気づかされることがありました。
例えば「個をあるがままに生かす」「個と組織を生かす」ことをミッションでありビジョンとして語る会社に就職したこと。人事コンサルタントとしての修行期間にたくさんのインタビューや制度設計に関わったこと。
年表に沿って話していったので、もう手放したことについての話が順番的に多くなったきらいはあったのですが、そこに色んな感想をいただいたことは思いもよらないことでした。
気づきには両面あって、そこが私のオリジナルな語るべきルーツかもしれないこと、同時に、私にとってもう語らなくてもいいことかもしれないこと。どちらなのか、いまはまだわかりません。

また、私は何度もがっつり休職しておまけに今も大学院に通ったりしつつ社内の異動も多い方だったり。何者でもないまま流れる物語、越境の物語として語った側面について、私自身よりも的確な表現での語り直し、または映像つきの豊かな語り直しもたくさんいただきました。
それは間違いなくその瞬間までの私が大事にしてきて、世間への言い訳として生きてきた物語でした。
それなのに、同時にいまここにいる私は、流れる人生の物語に矛盾する願いを抱き始めてもいます。何者かになって、居場所を得て、ひとの役にも立ちたい。
もしかしたらそのコントラストが、いまここの意味を深くしてくれたかもしれません。「語り終える」ということの意味がもしかしたらあったのかもしれません。みなさんに大事に読んでいただいたから、初めて次のページに進めるのかもしれません。
(ナラティブ・セラピーでいうところの、ドミナントストーリーの外在化、オルタナティブストーリーの発見、でしょうか。ナラティブすごい(^-^)おなじみのキャリアのトランジション理論でいうとブリッジズの、何かが終わる/ニュートラルゾーン/何かが始まる、かも)

そんなこんなで
かなこちゃんやみなさんに胸をお借りして語ってみてほんとによかったです。
ありがとうございました。
ふらふらといつまでも子どものままだった私がこうして何かの役に立ってもいいと思えるようになったことは、親キャリの場を通じてみなさんから少しずつ学んできたことの結果でもあり、いまこうしてそのことを言葉で自覚化できたことにかなり驚いていて、心から感謝しています。

私の発達を歯がゆく待ってくれていた人たちにも感謝しています。お待たせしました。ちゃんとおとなになりますね。

次回の物語もまた新しくたのしみです!

人と組織をみる解像度とマルチチャンネル

解像度たかく、ひとや、組織や、社会をみられたらいいなぁと思っています。

それから、世界をとらえる周波数のチャンネルをカチャカチャ変えてみたい。慣れ親しんだ窓から見える景色だけじゃなく、外に出て陽の光に透かしたり、可視光線以外の波長をとらえるカメラで撮影したりしたい。世界がいま見えている通りの姿とは限らないから。

だからわたしは研究をするんだなぁと、今日思いました。今日は研究の機会をくださっている企業の方たちと、調査結果を踏まえての次のアクションをわいがやするたのしい集まりでした。

私が勉強しているのは経営学、組織論の領域です。ひとのものの見方や経験が、組織の構造や環境が、作用しあってどのような機微をみせるのか。これまでわかっていることやこれから知るべきことを探索しています。

論文を書いて研究成果を出してなんぼの世界であることは重々承知していますが、今年は研究の過程で知り合った方々の活動や、研究の背景にある基本的な理論、いま学会で話されていることなどを紹介する機会を仕事でいくつかいただきました。不十分な内容ではあったと思いますが思ったより喜んでいただきました。

そうか、私自身がそうであるように、世界をみる解像度をあげたい、受信する周波数のチャンネルを変えてみたい、と思う方はたくさんいらっしゃるのかなぁと思いました。そうなのかな?

だとすれば、わたしがご縁や環境に恵まれて学ぶことができて、そこで面白いと思ったようなことの覚え書きをもう少しだだ漏れさせていこうかなと(^-^)
ちょうど、これまで読んだ論文を振り返りましょうという課題を先生からいただいているので、そのついでの備忘録のようなものになるかもしれません。
組織論や研究に関連するよしなしごとを書き溜めてみたいと思います。続くかな?

私と私のだいじな人たちに新しい世界をみせてくれる研究という営みが、私はとてもすきだなぁと改めて思った記念に。

2種類の後悔

ふと。
生きていると大きなものから小さなものまで日々さまざまな後悔にまみれますが、もしかしたら大きく分けると2種類なのかな。

自分で決めなかったことに対する後悔
ひとの意見や助けを求めたり受け容れなかったことに対する後悔

どちらがより苦いかなぁと。そんなことを考えてました。

知らなかった、調べなかった、流されてしまった、よく考えなかった。

信頼しなかった、格好つけたかった、自分でできると思いたかった。

自分で選んでも流されても、その結果を後悔しようと思えばできるってことでもあるような気もするけれど(^-^)
起こってしまったことの後悔より、次のより快適な一手がだいじとは思う。

でも、依存と自立を行ったり来たりしながらいいブレンド、バランスをめざしたいとも思う。

困ったら口に出す。(依存)
善意の情報にたどりつく努力をする。(自立)
結論を保留して急がない。(依存)
善意の提案だからと妥協して盲従しない。(自立)
自分の後悔のツボを知る。(自立)
結果を吟味しきれなくても機会に乗ってみる。(依存)
誰かの基準で判定される損得や勝ち負けに踊らない。(自立)
後悔を忘れて明日の風を感じる。(依存)

たとえばそんな感じ。

携帯電話を買い換える度にばかばかしくそんなことばかり考える。
世界はわかりやすくはできていないんだなぁと、自分のままで生きていこうとする自分の甘さを噛みしめる。

突然SIMを受け付けなくなったiPhoneちゃんはしばらくwifi専用機と化していましたが、新しいスマホが今晩あたり届くはずです(^-^)