いまここノート

いまここの記憶

「これでいい」のあるところ。しあわせから始める #親キャリ 勉強会シーズン6 第2回勉強会 開催報告

ワークとライフのあいだ。
余白の時間。

親になったわたしたちのためのキャリア勉強会、略して、親キャリ勉強会。
シーズン6第2回勉強会を2018.3.18に開催しました。

(参加者のめいままさんがつくってくださったホームページはこちら!過去の経緯や記録など oyacareer.jimdo.com) 

誰かにとって大切な役割を引き受けながらも、自分のままでいたい。 
親になっても。仕事に打ち込むときも。何かの役割を手放すときも。 

3ヶ月に一度自分のことを考える時間。 
慌ただしいけどたいせつな、いまここをちゃんと感じたい。 
働くことのまわりにある意味をつかまえたい。 

両立の先はひとり旅。 
はたらく意味を紡ぐ旅。 

1年1シーズンを通してのゆるやかなテーマでおしゃべりをして、6シーズン目になりました。 
お互いをたいせつに扱う時間のなかで、ほんとうははなしたかったことをつかまえたい。 
話す、離す、放す。 


「これでいい」のあるところ
今季のゆるやかなテーマは 
『「これでいい」のあるところ』 でした。

「キャリア」のとらえ方や扱い方はそれぞれですが、いろいろと不十分でも、これでいい とその時々に思えていればいいのかなと。
そのひと言が、誰にとってもそれほど簡単ではないからくるしい時もあるのかなと。
そんなふうに湧いてきたテーマでした。


いまここを選んでいるということ
前回は、 
『分かれ道の選び方』 
「えらぶ」ということについてはなしました。 
 
いまここを選んでいるということ、選ぶことと共にある何かに意識を向けてみました。 


ただ、 いまここ があるということ
今回は 
『選んだわけじゃない場所』 

選んだと感じる道があるのと同じように、選ばなかった・選べなかった道がたくさんありますね。 
誰もが、思いもよらなかった道の途中にいるとさえ思います。

今回は、"オランダ"と"マインドフルネス"をキーワードにおしゃべりをしました。


オランダ
人気ドラマで紹介された「オランダへようこそ」という詩があるそうです。
みんなで朗読してみて、感想や、浮かんでくる徒然なる会話をはなしました。

イタリアに移住するはずだったのに、着陸したのはオランダだった。
何も準備ができてない。
泣いてる暇もない、生活しなくては。
世間はイタリアの話題でもちきり。
私も憧れのイタリアに行くはずだったのに。
ふと目を上げるとオランダは美しい場所。
心の痛みは消えない。
オランダもいいところ。

つい惹かれてしまう、いたかも知れなかったもうひとつの世界、イタリア。
思いもよらなかった、いまここ にある世界、オランダ。

みなさんが、それぞれのイタリアとオランダについてはなしてくださいました。

長時間労働から時間制約へ。遠のいた手応えと一体感。
思いもよらない異動・配属。価値基準の違う世界。
事業統合や合併。マイノリティ感を噛み締めているはずの自分が、マジョリティとして括られ線を引かれる。
体力や体調のこと。自分の身体と付き合って行く。

これでよかったんだ、ここもいいところ、と思うのかどうか。
そうとも限らないという正直さが、この詩や、みなさんの話にはあったと思います。そのことを私は好ましく感じました。

一方で、夢に描いたイタリアに行けなければ、もう幸せになれない、ということもない。

ただ、いまここ はオランダだというだけ。
オランダをよく知ることによって、オランダが自分にもたらす変化を受け入れることによって、止まった時間が流れ出すように感じられました。


マインドフルネス
後半は、マインドフルネス、と呼ばれる瞑想についてご紹介しました。

詳しくはこちらをどうぞ。

この書籍におけるマインドフルネスの定義は「意図的に、今の瞬間に、評価や判断とは無縁の形で注意を払うこと」。

いまここ がただ意味もなく在るということに慣れることなのかなぁと。

忌まわしい情動が起こることを防ぐことはできない。
しかし情動は、私自身ではなく、私が経験している生理現象に過ぎない。

I am angry. ではなく
I feel anger in my body.
"執着というのは、心が何かに必死にしがみついて放そうとしない状態を言う。"
"嫌悪は、心が何かを必死に遠ざけ、それに近づくのを拒む状態のことだ。"
イタリアの危機は執着
オランダの危機は嫌悪
とも言えそうですね。

そして嫌になる自分を嫌になる「メタ嫌悪」は、生産的ではない。
硬いブラシで何度もこすって肌が腫れ上がる。
"優しさは、ブラシでこするその有害な行為をそっとやめさせる特性だ。やめさせられれば、やがて肌は回復する。"
マインドフルネスはそういう練習だそうです。
意識の向いている先に気づく練習。
優しい意図を自分と他者、世界に向ける練習。
穏やかで明晰でしあわせな感覚を、こころの泉にたたえる練習。

鍛錬を重ねれば、情動が起こるそばから手放すことができる。水面に書かれた字のごとく。
どんな経験もありのままに味わい、執着と嫌悪をもたなければだいじょうぶ。
"何年にもわたって私を悩ませてきた思考や情動が 、じつはとても弱くはかないこと、そして、小さな問題に執着すると、それが大きな問題となることが、徐々にわかってきた。
静かに座って、自分の思考や情動がどれほどすばやく、多くの点で不合理な形で、現れたり消えたりするかを観察しているだけで、それらが見かけほど堅固でも実体のあるものでもないのがはっきりとわかってきた。
そして、それらが語るように思える物語を信じなくなるにつれて、その向こうにいる「著者」が見えてきた。心そのものの本質である、はてしなく巨大で、はてしなく開かれた意識だ"

こころの基本設定はしあわせ
脳のデフォルトモードはしあわせ感なのだそうです。
瞑想で、こころに浮かぶ評価や判断をそっと保留して、自分をいたわる練習を重ねると、理由もなくしあわせ、という感覚が味わえるそうです。(その状態をスッカというそうです。)

これはほんとうにすばらしいことだなと思いますし、実際そんな気がします。

なんのために生きてるのかなぁとか考えてしまうと答えはないですが、ひとつは気づいたらもう生きてしまっているからで、もうひとつはせっかく生きるならしあわせに生きるということかなぁと思ったりします。

しあわせに生きることが自分にとって一番大事なら、何かの努力と引き換えでなくても、価値を発揮した報酬としてでなくても、人生の果てにでなくて今すぐにでも、しあわせになればいい。
しあわせな気持ちを出発点に、努力や価値にコミットすればいい。
そんなふうにも思います。私にとって大事な順に、順番を並べ換えるだけ。

しあわせ感から始める。

ここに自分がいたり、そこに人がいること、なにかが起こることに、意味づけをし過ぎる必要はなくて。ただ、いまここ がある。次にまた何かが起こる。

何者かになる、達成する、ということに価値を置くのは、数ある価値観のひとつ。だから他の在り方もあっていい。
その価値規範を緩めると自分が、みんなが、がんばらなくなるのでは、これまでのがんばりが無駄に感じられるのでは、といった恐れも十分理解できることです。
でも世界が一夜にして塗り替わるとも限りませんから、しあわせ感にチャンネルを合わせてみて、次に自分が何をするのか、何が起こるのか、試してみてもいいかなと思います。

しあわせ感から出発して、感謝が十分溜まってから、そのこと自体をよろこべる活動に時間を使う。生産的と思います。試してみます。


発酵する親キャリ
今季もリアル/バーチャルにおつきあいくださったみなさま、関心を寄せてくださったみなさま、たのしい時間をありがとうございました(^-^)

自分のしあわせ感、いまここ感にチャンネルを合わせた時、親キャリという場所は何だろう?といつも考えます。
親になって10年。両立の先のひとり旅にも少し味わいが出てきました。

ワークとライフのあいだ。
余白の時間。
ワークの彩りも、ライフの彩りも、「親となっても」では語りきれないほど豊かになってきました。
そろそろ「親キャリ」の看板を降ろす頃かもしれません。

それでも、誰かにとって大切な役割を引き受けつつ、彩り豊かな在り方を自分に許そうとする優しいひとたちとの場所でありたいと思います。なにか他のいい看板がみつかったら架け替えましょう(^-^)

ランチでめいままさんが「雑談」と表現してくださいましたが、言い得て妙です。
雑談の苦手な私にとっては、ここは雑談の場であり、探索の泉であり、友だちそのものです。

なので、ぶらキャリ、ゆらキャリがスピンオフしたことはとてもうれしいです。
意味もなくぶらぶらしてゆらぐ。来季も遊びにいきたいですね。

散歩の合間に雑談の場もホールドしたいと思います。
ワークとライフのあいだ。
余白の時間。
雑談が発酵する場所で、ほんとうははなしたかったことをつかまえる。
話す、離す、放す。

来シーズンはまた春の遠足、ぶらキャリから始めましょうか〜
GW明けすぐくらいかな?

「働き方改革」は個と組織の関係性の改革

いままさに暮れていく2017年は、働き方改革に明け暮れた一年でした。

2つの調査に関わりました。
「働き方改革」って、何が、どのように、変わっていく、変えていく改革なのかしら?ということを考え続けた一年でした。


働き方改革は個と組織の関係性の改革
調査を通じてわかってきたことは、働き方改革とは、個人と組織の関係性を結び直す改革ではないかということ。
長時間労働の抑制はひとつの重要なステップ、手段ではあるけれども、時間へのフォーカスの「次」が問われていること。

次のフェーズでは、
はたらく時間や、場所や、所属・経験の幅・自由度を拡げつつ、「いまここ」の仕事や所属への喜びを取り戻す。
多様な人生にフィットする、温かい職場とカラフルな働き方を工夫し創造する。

ワークシフト、ライフシフトの時代に、どの組織が、お互いのありのままの存在と「いまここ」の仕事に心を傾けあう関係性を築ける組織になれるのか。

いずれの調査もいったんの報告を終えたところなので、これから一歩、二歩と理解を深めていきたいと思います。
越境経験、ボランティアや育休復職の研究も、関連テーマとして深めていきたいです。
来年はたくさんの方の話をお聴きしたいです。


「働き方」が透明になるころ
そんなタイミングで、この一週間、少し早めに冬休みをいただいて、沖縄を旅してきました。
「休める人はどうぞー」と言ってもらって気兼ねなく休みに入って、携帯からメールにアクセスして年明けのわくわくする打ち合わせもいくつか決まりました。

「働き方」に懸念のないこの休暇のあいだ、正直なところ、「働き方」のことはチラリとも考えませんでした。一年間あんなに「働き方」浸けだったのに(^-^)ゞ
でも仕事のアイデアはいくつも浮かびました。

「働き方」への気持ちが透明な時、仕事が捗る、アイデアが発酵する、働く喜びがある。
実感、確信があります。

波に自由に足を洗わせて、半日釣り竿を垂らして魚の気持ちだけを考えて、マングローブの森を自分の手でカヤックを漕いで散策して、積ん読から一冊だけ選んだ本を空いた時間に読んだりして。
仕事上の課題が不思議と出口を探り当てるような感覚、「やらなきゃ」の焦りとは違う「これをやったらすごくいいかも」のアイデアが湧きあがる感覚。

はやく働き方改革の「その先」に行きたい。
こんな感じもひとつの「その先」としてどうでしょうか。

いま、日本中の優秀中の優秀なビジネスパーソンの方々がこぞって「働き方」の議論をされています。
そのことに希望を感じる気持ちと、働き「方」を議論する時期が早く過ぎて、誰もが「働く」喜びに安心して浸れるようになりたいと思う気持ちがないまぜになります。

一方で、働き方の選択は、一人ひとりの生き方の一部である。"Work in Life".
また、閉塞感に包まれている企業組織の、創造性を開放しうるボトルネックでもあると考えています。
ストレスフリーでクリエイティブでパーソナルな働き方の工夫、関係性の絶え間ない結び直しは、ブームを超えて日々の組織の営みに組み込まれていってほしいとも願っています。


まとまりませんが、2017年の振り返りにかえて、働き方改革について思ういまここの記録として。
本年もありがとうございました。
(ほんとは2017振り返り読書編も書きたかったけど、年が明けそうです(^-^)ゞ)

未完成の喜びを歌う

今週末、所属しているオーケストラの演奏会がありまして、第九をやります(^-^)
ベートーベンの交響曲第九番 合唱付き。
カップリングは未完成交響曲シューベルト交響曲第八番(または第七番)です。

演奏会前の練習に向かう電車で、最後の予習を聴きながらのエントリーです。

第九は一時間を超える大作です。練りに練られた名曲中の名曲。(明日はたぶん70分軽く超えるんじゃないでしょうか。聴きに来てくださる方はお覚悟を。。)
長いしな〜と実はまともに聴いたことがありませんでした。が、半年間じっくりつきあったいまとなっては、弾いて涙、聴いて涙。

オーケストラの曲って、楽器も演奏パートも演奏者の数も多くて、しかも長い。楽章ごとに曲の雰囲気もがらっと変わりながら、全体で一曲ということになっています。
いろんな複雑な構造や相互作用をみることができるので、私などは繰り返しオケの内側で弾いてみてはじめてわかるようになる良さも多いです(^-^)ゞ
素敵な音楽ジャンルはほかにもたくさんありますが、数十分持続できるほどの没入感がクラッシックの醍醐味に思われます。

明日の曲の聴きどころについて。

私はただ弾くだけなのでうんちくも全然もっていないのですが、4楽章の冒頭についてなるほど感のあるうんちくを先輩から教えてもらいました。

4楽章の冒頭には、1,2,3楽章のフレーズが少し出てきては、チェロバスの旋律に被せられて消える掛け合いがあります。
そのことについて、ちょっと正確な表現は忘れてしまいましたが、1楽章では生きる苦悩、2楽章では享楽、3楽章では愛が奏でられるけれど、そのどれでもない、喜びなんだよ!!という音楽らしいです(^-^)

1,2,3楽章は色々と工夫が凝らされていて、驚きも美しさもあるどれも素敵な音楽なんですが、最後に、ただシンプルに喜びをうたう4楽章がある、というのも素敵な結論だなぁと思いました。
4楽章はそんな音楽かもしれないと思いながらお聴きください。

1楽章は冒頭の微かな6連符、からのダイナミックでまじめな音楽。
2楽章は踊るティンパニ木管ソロ。
3楽章は夢のような1stバイオリンの旋律を夢の中で聴く客席。
あたりが見どころ聴きどころかなと個人的には思います。
(私は演奏会では迷わず寝る派です。第九は長いので起きてからもまだきっと楽しめます)

担当する2ndバイオリン的には、2楽章スケルツォの冒頭、ティンパニのあとに単身弾き始めるとこが最大の難所です。
人生の軽味、楽しみがクスクス笑いとともに溢れ出すような音楽になるといいなと思います。

一方の未完成交響曲は、人生の不完全さを謳った...わけではなく、ただ途中で書きやめてしまった曲らしいです(^-^)ゞ
歌曲をたくさんかいたシューベルトらしい?のかはわかりませんが、一楽章冒頭のオーボエ、二楽章のバイオリンの旋律などとても美しいです。
実力が素通しで見えてしまうオケ泣かせの曲でもあります。

では楽しんでまいります。
演奏会にいらっしゃれない方はこちらでお楽しみください(^-^)
サバリッシュ&ロイヤルコンセルトヘボウの第九

「これでいい」のあるところ。一人ひとりの選び方 #親キャリ 勉強会シーズン6第1回 開催報告

親になった私たちのためのキャリア勉強会、略して 親キャリ勉強会。
定期と不定期のあいだくらいの頻度で開催して、6年目になりました。

ワークとライフのあいだ。
親になっても、自分のままでいたい。
何かの役割を引き受けたり手放したりするときも、自分自身でいることをだいじにしたい。
3ヶ月に一度、自分のことをはなす時間。

お互いをたいせつに扱う時間のなかで、ほんとうははなしたかったことをつかまえたい。
話す、離す、放す。

両立の先はひとり旅。
途中で立ち寄る週末の山小屋。


ここ数年はご参加のみなさんによる自由なスピンオフ企画がゆるく行われています(^-^)
izmyさん企画、毎回大好評のお散歩企画 「ブラキャリ」に加え、先週末は焚き火を囲む「ゆらキャリ」が初開催されました(企画されたさえきちさん、ryoさん、ありがとうございました!)

ゆらキャリ、とっても楽しかったです。
その感想など書き留めたいと思ったのですが、実はゆらキャリのルーツは9月の通常勉強会にありました。そちらのことを先に...書きます!


「これでいい」と思えるには
親キャリ勉強会では1シーズン通じてのゆるやかなテーマのもと、各回のテーマを、こちらもゆるやかに置いています。

今季のテーマは
『「これでいい」のあるところ』
としてみました。
「これでいい」っていつでも思えたら、とってもしあわせなのになぁと。

そして第1回のテーマは、『分かれ道の選び方』。
「えらぶ」ということについてはなしたいと思いました。
いまここを選んでいるということ。

今回はかなこちゃん、ひよこちゃんに一緒に企画をしてもらいました!ありがとう〜
かなこちゃんはご自分で会社を始めましたよ。キャリアカウンセリングのご相談はキャリアライブへ!https://www.careerlive.co.jp/
自分の「選ぶ」に意識を向けるために、前半は、いまこの瞬間みんなが選んでいることの共通項としての「親キャリ」を題材にしたワーク、後半はそれぞれの「選ぶ」についての対話的おしゃべりをしました。


いまあなたが選んでいるこの場は「何のよう」?
あなたにとって「親キャリとは」または「親キャリに来るとは」何のよう?
前半はこんな問いによるグループワーク。
親キャリの場やここに参加することは「○○のよう」というそれぞれの答えに対して、クリーンな質問をしあって、心の中のイメージを深く豊かにしていきました。

  • それはどんな種類の○○?
  • ○○についてほかにはなにかある?
  • ○○に色や形はある?
  • ○○はどこにある?
  • ○○のつぎに何が起きる?

いろいろ!なメタファーがでてきてとても驚きましたし、たのしかったです。
「焚き火」...手を温めたり、集まって話したり、炎に思わぬ自分が照らされたり、マシュマロ焼いたり
「帰省」...親である自分が親じゃなかったころの居場所に戻る、縁側に座ってしゃべる隣になにも言わずに座っていてくれる人がいる
「近所のおばちゃんち」...学校帰りに、ガラガラって勝手に戸を開けてあがりこんでオッケー
「山道の道標」...ときどき矢印が出てるけど、従ったからといって山頂にたどり着けるとは限らない
「浮き輪」...気づいたら海で溺れてて苦しくて、神さまが投げてくれた浮き輪でなんとか息ができるけど、ほんの小さな浮き輪だから小舟がほしい、自分でつくるしかないのかなと思う
「触媒」...誰かの何気ない言葉が、自分の中にすでにあったけどもやもやしていたものの化学反応を一気に加速させる、それがお互いに起こる、不可逆的な変化、望んでいなかったものではない

みなさんの「選ぶ」はほんとに多彩。
そしてみなさんの喩えてみる力はなんて豊かなんだろうと思いました。

今回、それぞれの「選ぶ」に意識を向けるためのワークでしたが、そこでいただいた副産物はこの場の置き係としてとてもありがたいものでした。
こんなゆるい場を選んでくださってありがとうございます。

小さな浮き輪のように、近所のおばちゃんのように、マシュマロのように、とてもゆるくて力弱い場所なんだなぁと改めて。場の力弱さのおかげでみなさんの力強さが際立つ、一人ひとりの陰影が照らされている、そんなこともあるのかなぁと思いました。

※そしてこのメタファーが、焚き火合宿ゆらきゃりへと急展開していきます。


「選ぶ」ことのまわりにある自分らしさとは
後半は、全体でのおしゃべり、お互いの言葉を聴きながら、それぞれの「選ぶ」に意識を向ける時間となりました。

  • 今あなたが選んでいるものは何?
  • 選ぼうと思っているものは何?
  • 選び取り方や選ぶものそのものに、どんなあなたらしさがあると思う?

意志をもって選んだような選択
選んでいないような選択
計画する選び方、しない選び方
時間が経って意味が見えてきた選択
「その時」に選べるための野性の磨き方
選ばれることによる選択

いろんなお話がでたと思います。
ほんとうに、「聴く」こと、他者に意識を向けるという贈り物に長けたみなさんだなぁと思います。
お互いの贈り物が、それぞれのご自身の選び方に意識を向ける助けになっていたらよかったなぁと思いました。

かなこちゃん、場のファシリテーションありがとうございました!
参加できなかったひよこちゃんも助けてくれてありがとう〜。


選ぶということ
今回の勉強会の企画から、参加されたみなさんからの予測し得なかった一言ひとことに至るまで、全体を通じて、わたし自身も自分の「選ぶ」に意識を向ける時間となりました。

私自身が「選ぶ」ことに苦手意識があるために、場の可能性を狭めたらいけないなぁという思いもあって、かなこちゃんにファシリテーションをお願いしました。大正解でした、ありがとう(^-^)

選んでこなかった、というような感慨をもっているのは自分だけじゃないんだなぁということがわかって安心しました。
また、意志のチカラをもっていて素敵にみえる方々も、それぞれのやり方で迷いをすくい上げたり、穴を埋めたりされているんだと知りました。

いま目の前にいるひとの佇まいが素敵だと、きっと素晴らしい選択の結果なんだろうと思ってしまいますし、誰かの選択の瞬間をみると、なんて軽やかで賢明なんだろう思ってしまうものですが、もしかしたらそうじゃないのかも。
何を選んでいても、どんな選び方をしていても、その人自身であることが滲み出していることが素敵にみえるだけなのかもしれませんね。

今回もありがとうございました。
11月はゆらきゃり、その次は年明け年度内に勉強会を開催できたらと思います。

積ん読解消シリーズ『社会はなぜ左と右に分かれるのか』

職場の同僚が企画してくれた半年ワンクールの朝読書会。
(同僚と呼ぶにはあまりに先輩で、この道のベテランで、上司的な存在でもあるのですが、上司でもなく、敬意を込めて同僚と呼ばせていただけることを光栄に思いつつ)

最終回はこの、ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右に分かれるのか』でした。

有り体に言えば、いま読むべき一冊ではないでしょうか。

実際に日本社会が左と右に分かれているのかは、わたしには勉強不足で判然としませんが、誰にもそのひとの「正義」があるということが、その字面よりも深く理解できる可能性のある一冊です。

ハイトは道徳心理学者だそうです。人の道徳心の発達やあり様を解き明かそうとしています。興味深い着眼点だと思います。

人の思考においては、まず直観と感情が水路づけをし、そのあと論理的思考が可能な限りの正当化を試みることがおこなわれていて、感情に関する脳の機能が損傷されると小さな意思決定も難しくなるそうです。

なので、ハイトは、人の感情が刺激されるような、道徳心・正義心の拠り所を探求します。
私たちは、徳の高い行いに接した時に気分が高揚するのと同じように、不道徳な態度に接すると貶められたように感じるのだ。
「不道徳」なひとは「モンスター」のように見え、人間の基本的な感情を欠いていると考える。
不快感を覚えさせ、ゴミ箱からネズミが飛び出してきたときと同じような生理的嫌悪を引き起こす。
このような嫌悪感、不快感が生じる道徳心・正義心の拠り所が、複数あって、その重んじ方が人によって違うということがハイトの主張です。

ハイトによると、道徳心・正義心の拠り所は6つあります。
ケア、公正、忠誠、権威、神聖、自由。

アメリカでリベラルと自認する人たちは、ケア、公正、自由の3つの道徳基盤のみを重視する傾向があるそうです。
つまり、人に危害を加えず・加えられないこと、社会的な弱者に負担を押し付けないという規範を守れば、あとは権威に抑圧されず集団規範に縛られない自由を求める。

しかしアメリカで保守主義者を自認する人は、6つすべての道徳基準をもちます。彼らも公正を軽んじているわけではなく、「努力に応じた配分」という公正を求めます。また、福祉国家化し、働かない者、集団規範を守らず排除された(と彼らがみなす)者に税金が配分されることを警戒し、自身の努力である経済活動が抑圧されない「自由」を求めます。

現実の選択としては相容れない部分が大いにありながら、いずれもそれぞれの信じる「公正」「自由」などを主張している。しかし、保守主義者の方が6つの道徳基盤にもとづく感情の動きの原理を理解している分、人々の、感情が先行する論理的道徳的な判断を動かしやすいのだというのが本書におけるハイトの主張です。

自分にとって道徳的な観点でモンスターのように感じられる人がいたとして、その相手からみると、もしかしたら自分がモンスターかもしれない。
誰かのモンスターにならず、やや左よりの中道を行く勇気をもつということも、リベラルの勝ち筋としては有効と言えるかもしれません。保守が飲むことができ、かつ現実の課題を見据えた策を訴えられるか。

また、人間には雑食動物のジレンマというのがあるそうです(食べられるかどうかを誰かがトライしないと生き延びられないけれど、見慣れない物を食べるとお腹を壊すかもしれない)。
  • 雑食動物は、ネオフィリア(新奇好み)とネオフォビア(新奇恐怖)という二つの対立する衝動を抱えて生きている
  • どちらの衝動が強いかは人によって異なる
  • リベラルはネオフィリアの度合いが高く(「経験に対して開かれている」とも言える)、対して保守主義者はネオフォビアの度合いが高く、確実にわかっていることにこだわる傾向があり、境界や伝統の遵守に大きな関心を持つ
と、ハイトは分析します。

ここもリベラルが一枚岩化しにくい理由かなと思います。すでにある伝統や「確実にわかっていること」は実体感をもって共有しやすいけれど、まだここにないものや可能性はまだ確定していないので共に手に取ることがしにくいのでしょう。

このように考えてくると、「みんなで考える」手法(ホールシステムアプローチ)、「未来を手に取る」手法の開発と普及はとても大事なことだと思えてきます。
フューチャーサーチ/フューチャーセッションもそうですし、U理論のオットー・シャーマーなどもこのあたりに精力的に取り組んでいるようです。
誰にでもあるネオフィリア的な部分を丁寧に乗り越えて、まだここにない未来を手に取ろうとする都合上、活動は草の根的にならざるを得ず、それもリベラルが大勝しにくい理由かもしれません。

理由に思いを巡らせたうえで、なにを反省し、なにを取り入れ、それらをどう反転するか。知恵の絞りどころと思いました。
批評がしたかったわけでもなくて、私自身が考えるためのメモとして書いたものをみなさんにシェアさせていただきました。

感情が先行する思考プロセスについてはこちらもご参照ください。

しあわせ仮説

しあわせ仮説


あといつものU理論

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

もしかしたら続編の方が今回のテーマには近いかも

出現する未来から導く――U理論で自己と組織、社会のシステムを変革する

出現する未来から導く――U理論で自己と組織、社会のシステムを変革する


3年ぶり2回目、「感情にことばをあたえる」読書感想文ひとりワークショップ

3年ぶり2回目の読書感想文に取り組みました。
3年前の主役は小学校一年生の長女ちゃん、今回は同じく小学校一年生になった次女ちゃんです。
 
3年前の顛末はこちら。
 
「宿題」と考えれば、読書感想文なんてぶっちゃけ書かなくてもかけなくてもいいかなと思っているんですが、この先、複雑になっていく自分の感情を、こころとからだの感じに向き合って拾い上げて、いっしょに言葉にしていく関係性づくりのためと思ってやっています。
 
むしろ、3年前に取り組んだ長女ちゃんが(1年生では学校で賞をもらいましたが、その後感想文は書いてませんw)、感想文ワークショップの意味を妹に語ってくれて、そのことに感動しました。
あのね、自分の感じ方はほかの人とは違うんだよ。
同じ本を読んでも、絵や写真を見ても、それを何と思うかは違うんだよ。
自分だけの感じ方をつたえるとね、
他の人の感じ方を知ることもできるし、違うところ、同じところ
なにより、本やお話のこと、じぶんのこと、他の人のことをよく知ることができるんだよ。

どんな経験も長女ちゃんのなかで発酵していくんだなぁ、と。

 
ご参考までに我が家のひとりワークショップでつかったスライドを貼っておきます。来年は近所の子何人か呼んで試してみようかな…
ぶっちゃけ、小1だと、かなり親が張り付いて対話的に引き出してひろげてあげないと難しいかなと思います。
でも親子で感情や言葉を探すのもいい時間かなぁと。
まあいい経験だったかなと思うためには、半日でやっつけるつもりでちゃっちゃとやるのがおすすめです。
 

オバサンの向こう側

お盆というのは、社会の慣習のようなものや、各家庭の多様な在り方、男女間(というか、人として)のフェアネスみたいなことを考えさせられる材料が多いなぁと毎年思います。

ここ3年は、お盆休みの直前に北米で開催される学会に参加していたので、そこで感じる文化差のようなことに影響を受ける内省も混ざりあって、毎年多感な季節です。

アメリカはいいなぁとかそんな単純なことは全然なくて、ただ、異文化との接触によって、自分がどっぷりと浸かっている「アタリマエ」を考え直す内省に手を引かれます。

ここ数年、仕事で出張したり、発表したりする機会が増えました。
そういう経験の中で、自分がいかに「オンナコドモ」を演じていたかということを反省しています(君は昔から生意気だったというご意見もあろうかとは思いますがあくまで主観であって当人比です)。

決定権や評価権をひとに譲って、自信や自尊心をもたず、ハイと渡されたルールの決まったゲームの中でうまくやりくりする。
じわじわと損なわれていたのは、主体性であり、自尊心だったなと思います。自分で決めて迷わないこと。
オンナコドモは黙ってろ悪いようにはしないからという箱の中で、どんどん「決める」ことへの無力感を増幅し続けていたような気がします。

でもこの10年、子どもをもつことになり、予防接種の保護者欄にサインをするようになって、リスクを取って判断することの重みを知り、大人への一歩を踏み出せてよかったと私は思っています。
もう世間からも可愛げは期待されないと思うと、堂々とオバサンになれることに果てしない開放感も感じました(君は昔から可愛げなんかなかったというご意見もあろうかとは思いますがあくまで主観であって当人比です)。

そしてこの5年、会社を一時期離れたり、単独行動をして、自分の責任において恥をかいたり、やり直したり、ひと言要求したりするちいさな機会の一つひとつに、少しずつオトナの在り方を学んでいるように思います。自分と他者とを尊重しながら自分で決められるオトナの在り方を。

併せてこの3年、海外のいくつかの都市で感じたのは、若い人のなかにもオバサン的な図々しさがあり、年配の人の中にも茶目っ気や艶があることでした。
オンナコドモとオバサンの断絶を生きなくてもいいことが、とても清々しく感じられました。オトナの男性も女性も、オンナコドモ的な感性をもったまま生きていいと肯定されるような清々しさ。

しかし同時に、活力と人とのつながり、倦怠と孤立に分断されるような大きな格差も感じました。それが教育や経済的な環境の格差によっている部分も大きいように見えます。
オトナとオンナコドモの分断も、経済力の格差が裏打ちしていることを感じます。
経済価値は人の価値ではないし、生産活動や経済的な合理性が何よりも優先されるものではない。かといって、ケア労働の価値を心の中で認めればすべてが解決するという社会でもないところが難しいところだなと。経済的な自立が人権を支える社会であることにも同時に目を向けて、フェアネスを実現することの難しさ。かといって経済価値だけを搾取されるように感じられるとき、労働者の人権が尊重されているともとても思えず。
(すみません、思考が迷走しました。)

たぶん日本に居ても、狭い田舎町でも、一つの会社の中でも、子どもをもたなくても、経験しようと思えば経験できたことなんだろうなと思います。
自分の頭で考えて、失敗しながら決めるちいさな経験を。他者の機嫌や顔色と、自分の存在の尊さは別物であるという信念を。経済的な自立について自分なりに考える機会を。自分の子どもたちを含めた周りの人たちから奪わないために、何ができるかをいつも考えていたいです。