いまここノート

いまここの記憶

未完成の喜びを歌う

今週末、所属しているオーケストラの演奏会がありまして、第九をやります(^-^)
ベートーベンの交響曲第九番 合唱付き。
カップリングは未完成交響曲シューベルト交響曲第八番(または第七番)です。

演奏会前の練習に向かう電車で、最後の予習を聴きながらのエントリーです。

第九は一時間を超える大作です。練りに練られた名曲中の名曲。(明日はたぶん70分軽く超えるんじゃないでしょうか。聴きに来てくださる方はお覚悟を。。)
長いしな〜と実はまともに聴いたことがありませんでした。が、半年間じっくりつきあったいまとなっては、弾いて涙、聴いて涙。

オーケストラの曲って、楽器も演奏パートも演奏者の数も多くて、しかも長い。楽章ごとに曲の雰囲気もがらっと変わりながら、全体で一曲ということになっています。
いろんな複雑な構造や相互作用をみることができるので、私などは繰り返しオケの内側で弾いてみてはじめてわかるようになる良さも多いです(^-^)ゞ
素敵な音楽ジャンルはほかにもたくさんありますが、数十分持続できるほどの没入感がクラッシックの醍醐味に思われます。

明日の曲の聴きどころについて。

私はただ弾くだけなのでうんちくも全然もっていないのですが、4楽章の冒頭についてなるほど感のあるうんちくを先輩から教えてもらいました。

4楽章の冒頭には、1,2,3楽章のフレーズが少し出てきては、チェロバスの旋律に被せられて消える掛け合いがあります。
そのことについて、ちょっと正確な表現は忘れてしまいましたが、1楽章では生きる苦悩、2楽章では享楽、3楽章では愛が奏でられるけれど、そのどれでもない、喜びなんだよ!!という音楽らしいです(^-^)

1,2,3楽章は色々と工夫が凝らされていて、驚きも美しさもあるどれも素敵な音楽なんですが、最後に、ただシンプルに喜びをうたう4楽章がある、というのも素敵な結論だなぁと思いました。
4楽章はそんな音楽かもしれないと思いながらお聴きください。

1楽章は冒頭の微かな6連符、からのダイナミックでまじめな音楽。
2楽章は踊るティンパニ木管ソロ。
3楽章は夢のような1stバイオリンの旋律を夢の中で聴く客席。
あたりが見どころ聴きどころかなと個人的には思います。
(私は演奏会では迷わず寝る派です。第九は長いので起きてからもまだきっと楽しめます)

担当する2ndバイオリン的には、2楽章スケルツォの冒頭、ティンパニのあとに単身弾き始めるとこが最大の難所です。
人生の軽味、楽しみがクスクス笑いとともに溢れ出すような音楽になるといいなと思います。

一方の未完成交響曲は、人生の不完全さを謳った...わけではなく、ただ途中で書きやめてしまった曲らしいです(^-^)ゞ
歌曲をたくさんかいたシューベルトらしい?のかはわかりませんが、一楽章冒頭のオーボエ、二楽章のバイオリンの旋律などとても美しいです。
実力が素通しで見えてしまうオケ泣かせの曲でもあります。

では楽しんでまいります。
演奏会にいらっしゃれない方はこちらでお楽しみください(^-^)
サバリッシュ&ロイヤルコンセルトヘボウの第九

「これでいい」のあるところ。一人ひとりの選び方 #親キャリ 勉強会シーズン6第1回 開催報告

親になった私たちのためのキャリア勉強会、略して 親キャリ勉強会。
定期と不定期のあいだくらいの頻度で開催して、6年目になりました。

ワークとライフのあいだ。
親になっても、自分のままでいたい。
何かの役割を引き受けたり手放したりするときも、自分自身でいることをだいじにしたい。
3ヶ月に一度、自分のことをはなす時間。

お互いをたいせつに扱う時間のなかで、ほんとうははなしたかったことをつかまえたい。
話す、離す、放す。

両立の先はひとり旅。
途中で立ち寄る週末の山小屋。


ここ数年はご参加のみなさんによる自由なスピンオフ企画がゆるく行われています(^-^)
izmyさん企画、毎回大好評のお散歩企画 「ブラキャリ」に加え、先週末は焚き火を囲む「ゆらキャリ」が初開催されました(企画されたさえきちさん、ryoさん、ありがとうございました!)

ゆらキャリ、とっても楽しかったです。
その感想など書き留めたいと思ったのですが、実はゆらキャリのルーツは9月の通常勉強会にありました。そちらのことを先に...書きます!


「これでいい」と思えるには
親キャリ勉強会では1シーズン通じてのゆるやかなテーマのもと、各回のテーマを、こちらもゆるやかに置いています。

今季のテーマは
『「これでいい」のあるところ』
としてみました。
「これでいい」っていつでも思えたら、とってもしあわせなのになぁと。

そして第1回のテーマは、『分かれ道の選び方』。
「えらぶ」ということについてはなしたいと思いました。
いまここを選んでいるということ。

今回はかなこちゃん、ひよこちゃんに一緒に企画をしてもらいました!ありがとう〜
かなこちゃんはご自分で会社を始めましたよ。キャリアカウンセリングのご相談はキャリアライブへ!https://www.careerlive.co.jp/
自分の「選ぶ」に意識を向けるために、前半は、いまこの瞬間みんなが選んでいることの共通項としての「親キャリ」を題材にしたワーク、後半はそれぞれの「選ぶ」についての対話的おしゃべりをしました。


いまあなたが選んでいるこの場は「何のよう」?
あなたにとって「親キャリとは」または「親キャリに来るとは」何のよう?
前半はこんな問いによるグループワーク。
親キャリの場やここに参加することは「○○のよう」というそれぞれの答えに対して、クリーンな質問をしあって、心の中のイメージを深く豊かにしていきました。

  • それはどんな種類の○○?
  • ○○についてほかにはなにかある?
  • ○○に色や形はある?
  • ○○はどこにある?
  • ○○のつぎに何が起きる?

いろいろ!なメタファーがでてきてとても驚きましたし、たのしかったです。
「焚き火」...手を温めたり、集まって話したり、炎に思わぬ自分が照らされたり、マシュマロ焼いたり
「帰省」...親である自分が親じゃなかったころの居場所に戻る、縁側に座ってしゃべる隣になにも言わずに座っていてくれる人がいる
「近所のおばちゃんち」...学校帰りに、ガラガラって勝手に戸を開けてあがりこんでオッケー
「山道の道標」...ときどき矢印が出てるけど、従ったからといって山頂にたどり着けるとは限らない
「浮き輪」...気づいたら海で溺れてて苦しくて、神さまが投げてくれた浮き輪でなんとか息ができるけど、ほんの小さな浮き輪だから小舟がほしい、自分でつくるしかないのかなと思う
「触媒」...誰かの何気ない言葉が、自分の中にすでにあったけどもやもやしていたものの化学反応を一気に加速させる、それがお互いに起こる、不可逆的な変化、望んでいなかったものではない

みなさんの「選ぶ」はほんとに多彩。
そしてみなさんの喩えてみる力はなんて豊かなんだろうと思いました。

今回、それぞれの「選ぶ」に意識を向けるためのワークでしたが、そこでいただいた副産物はこの場の置き係としてとてもありがたいものでした。
こんなゆるい場を選んでくださってありがとうございます。

小さな浮き輪のように、近所のおばちゃんのように、マシュマロのように、とてもゆるくて力弱い場所なんだなぁと改めて。場の力弱さのおかげでみなさんの力強さが際立つ、一人ひとりの陰影が照らされている、そんなこともあるのかなぁと思いました。

※そしてこのメタファーが、焚き火合宿ゆらきゃりへと急展開していきます。


「選ぶ」ことのまわりにある自分らしさとは
後半は、全体でのおしゃべり、お互いの言葉を聴きながら、それぞれの「選ぶ」に意識を向ける時間となりました。

  • 今あなたが選んでいるものは何?
  • 選ぼうと思っているものは何?
  • 選び取り方や選ぶものそのものに、どんなあなたらしさがあると思う?

意志をもって選んだような選択
選んでいないような選択
計画する選び方、しない選び方
時間が経って意味が見えてきた選択
「その時」に選べるための野性の磨き方
選ばれることによる選択

いろんなお話がでたと思います。
ほんとうに、「聴く」こと、他者に意識を向けるという贈り物に長けたみなさんだなぁと思います。
お互いの贈り物が、それぞれのご自身の選び方に意識を向ける助けになっていたらよかったなぁと思いました。

かなこちゃん、場のファシリテーションありがとうございました!
参加できなかったひよこちゃんも助けてくれてありがとう〜。


選ぶということ
今回の勉強会の企画から、参加されたみなさんからの予測し得なかった一言ひとことに至るまで、全体を通じて、わたし自身も自分の「選ぶ」に意識を向ける時間となりました。

私自身が「選ぶ」ことに苦手意識があるために、場の可能性を狭めたらいけないなぁという思いもあって、かなこちゃんにファシリテーションをお願いしました。大正解でした、ありがとう(^-^)

選んでこなかった、というような感慨をもっているのは自分だけじゃないんだなぁということがわかって安心しました。
また、意志のチカラをもっていて素敵にみえる方々も、それぞれのやり方で迷いをすくい上げたり、穴を埋めたりされているんだと知りました。

いま目の前にいるひとの佇まいが素敵だと、きっと素晴らしい選択の結果なんだろうと思ってしまいますし、誰かの選択の瞬間をみると、なんて軽やかで賢明なんだろう思ってしまうものですが、もしかしたらそうじゃないのかも。
何を選んでいても、どんな選び方をしていても、その人自身であることが滲み出していることが素敵にみえるだけなのかもしれませんね。

今回もありがとうございました。
11月はゆらきゃり、その次は年明け年度内に勉強会を開催できたらと思います。

積ん読解消シリーズ『社会はなぜ左と右に分かれるのか』

職場の同僚が企画してくれた半年ワンクールの朝読書会。
(同僚と呼ぶにはあまりに先輩で、この道のベテランで、上司的な存在でもあるのですが、上司でもなく、敬意を込めて同僚と呼ばせていただけることを光栄に思いつつ)

最終回はこの、ジョナサン・ハイトの『社会はなぜ左と右に分かれるのか』でした。

有り体に言えば、いま読むべき一冊ではないでしょうか。

実際に日本社会が左と右に分かれているのかは、わたしには勉強不足で判然としませんが、誰にもそのひとの「正義」があるということが、その字面よりも深く理解できる可能性のある一冊です。

ハイトは道徳心理学者だそうです。人の道徳心の発達やあり様を解き明かそうとしています。興味深い着眼点だと思います。

人の思考においては、まず直観と感情が水路づけをし、そのあと論理的思考が可能な限りの正当化を試みることがおこなわれていて、感情に関する脳の機能が損傷されると小さな意思決定も難しくなるそうです。

なので、ハイトは、人の感情が刺激されるような、道徳心・正義心の拠り所を探求します。
私たちは、徳の高い行いに接した時に気分が高揚するのと同じように、不道徳な態度に接すると貶められたように感じるのだ。
「不道徳」なひとは「モンスター」のように見え、人間の基本的な感情を欠いていると考える。
不快感を覚えさせ、ゴミ箱からネズミが飛び出してきたときと同じような生理的嫌悪を引き起こす。
このような嫌悪感、不快感が生じる道徳心・正義心の拠り所が、複数あって、その重んじ方が人によって違うということがハイトの主張です。

ハイトによると、道徳心・正義心の拠り所は6つあります。
ケア、公正、忠誠、権威、神聖、自由。

アメリカでリベラルと自認する人たちは、ケア、公正、自由の3つの道徳基盤のみを重視する傾向があるそうです。
つまり、人に危害を加えず・加えられないこと、社会的な弱者に負担を押し付けないという規範を守れば、あとは権威に抑圧されず集団規範に縛られない自由を求める。

しかしアメリカで保守主義者を自認する人は、6つすべての道徳基準をもちます。彼らも公正を軽んじているわけではなく、「努力に応じた配分」という公正を求めます。また、福祉国家化し、働かない者、集団規範を守らず排除された(と彼らがみなす)者に税金が配分されることを警戒し、自身の努力である経済活動が抑圧されない「自由」を求めます。

現実の選択としては相容れない部分が大いにありながら、いずれもそれぞれの信じる「公正」「自由」などを主張している。しかし、保守主義者の方が6つの道徳基盤にもとづく感情の動きの原理を理解している分、人々の、感情が先行する論理的道徳的な判断を動かしやすいのだというのが本書におけるハイトの主張です。

自分にとって道徳的な観点でモンスターのように感じられる人がいたとして、その相手からみると、もしかしたら自分がモンスターかもしれない。
誰かのモンスターにならず、やや左よりの中道を行く勇気をもつということも、リベラルの勝ち筋としては有効と言えるかもしれません。保守が飲むことができ、かつ現実の課題を見据えた策を訴えられるか。

また、人間には雑食動物のジレンマというのがあるそうです(食べられるかどうかを誰かがトライしないと生き延びられないけれど、見慣れない物を食べるとお腹を壊すかもしれない)。
  • 雑食動物は、ネオフィリア(新奇好み)とネオフォビア(新奇恐怖)という二つの対立する衝動を抱えて生きている
  • どちらの衝動が強いかは人によって異なる
  • リベラルはネオフィリアの度合いが高く(「経験に対して開かれている」とも言える)、対して保守主義者はネオフォビアの度合いが高く、確実にわかっていることにこだわる傾向があり、境界や伝統の遵守に大きな関心を持つ
と、ハイトは分析します。

ここもリベラルが一枚岩化しにくい理由かなと思います。すでにある伝統や「確実にわかっていること」は実体感をもって共有しやすいけれど、まだここにないものや可能性はまだ確定していないので共に手に取ることがしにくいのでしょう。

このように考えてくると、「みんなで考える」手法(ホールシステムアプローチ)、「未来を手に取る」手法の開発と普及はとても大事なことだと思えてきます。
フューチャーサーチ/フューチャーセッションもそうですし、U理論のオットー・シャーマーなどもこのあたりに精力的に取り組んでいるようです。
誰にでもあるネオフィリア的な部分を丁寧に乗り越えて、まだここにない未来を手に取ろうとする都合上、活動は草の根的にならざるを得ず、それもリベラルが大勝しにくい理由かもしれません。

理由に思いを巡らせたうえで、なにを反省し、なにを取り入れ、それらをどう反転するか。知恵の絞りどころと思いました。
批評がしたかったわけでもなくて、私自身が考えるためのメモとして書いたものをみなさんにシェアさせていただきました。

感情が先行する思考プロセスについてはこちらもご参照ください。

しあわせ仮説

しあわせ仮説


あといつものU理論

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

U理論――過去や偏見にとらわれず、本当に必要な「変化」を生み出す技術

もしかしたら続編の方が今回のテーマには近いかも

出現する未来から導く――U理論で自己と組織、社会のシステムを変革する

出現する未来から導く――U理論で自己と組織、社会のシステムを変革する


3年ぶり2回目、「感情にことばをあたえる」読書感想文ひとりワークショップ

3年ぶり2回目の読書感想文に取り組みました。
3年前の主役は小学校一年生の長女ちゃん、今回は同じく小学校一年生になった次女ちゃんです。
 
3年前の顛末はこちら。
 
「宿題」と考えれば、読書感想文なんてぶっちゃけ書かなくてもかけなくてもいいかなと思っているんですが、この先、複雑になっていく自分の感情を、こころとからだの感じに向き合って拾い上げて、いっしょに言葉にしていく関係性づくりのためと思ってやっています。
 
むしろ、3年前に取り組んだ長女ちゃんが(1年生では学校で賞をもらいましたが、その後感想文は書いてませんw)、感想文ワークショップの意味を妹に語ってくれて、そのことに感動しました。
あのね、自分の感じ方はほかの人とは違うんだよ。
同じ本を読んでも、絵や写真を見ても、それを何と思うかは違うんだよ。
自分だけの感じ方をつたえるとね、
他の人の感じ方を知ることもできるし、違うところ、同じところ
なにより、本やお話のこと、じぶんのこと、他の人のことをよく知ることができるんだよ。

どんな経験も長女ちゃんのなかで発酵していくんだなぁ、と。

 
ご参考までに我が家のひとりワークショップでつかったスライドを貼っておきます。来年は近所の子何人か呼んで試してみようかな…
ぶっちゃけ、小1だと、かなり親が張り付いて対話的に引き出してひろげてあげないと難しいかなと思います。
でも親子で感情や言葉を探すのもいい時間かなぁと。
まあいい経験だったかなと思うためには、半日でやっつけるつもりでちゃっちゃとやるのがおすすめです。
 

オバサンの向こう側

お盆というのは、社会の慣習のようなものや、各家庭の多様な在り方、男女間(というか、人として)のフェアネスみたいなことを考えさせられる材料が多いなぁと毎年思います。

ここ3年は、お盆休みの直前に北米で開催される学会に参加していたので、そこで感じる文化差のようなことに影響を受ける内省も混ざりあって、毎年多感な季節です。

アメリカはいいなぁとかそんな単純なことは全然なくて、ただ、異文化との接触によって、自分がどっぷりと浸かっている「アタリマエ」を考え直す内省に手を引かれます。

ここ数年、仕事で出張したり、発表したりする機会が増えました。
そういう経験の中で、自分がいかに「オンナコドモ」を演じていたかということを反省しています(君は昔から生意気だったというご意見もあろうかとは思いますがあくまで主観であって当人比です)。

決定権や評価権をひとに譲って、自信や自尊心をもたず、ハイと渡されたルールの決まったゲームの中でうまくやりくりする。
じわじわと損なわれていたのは、主体性であり、自尊心だったなと思います。自分で決めて迷わないこと。
オンナコドモは黙ってろ悪いようにはしないからという箱の中で、どんどん「決める」ことへの無力感を増幅し続けていたような気がします。

でもこの10年、子どもをもつことになり、予防接種の保護者欄にサインをするようになって、リスクを取って判断することの重みを知り、大人への一歩を踏み出せてよかったと私は思っています。
もう世間からも可愛げは期待されないと思うと、堂々とオバサンになれることに果てしない開放感も感じました(君は昔から可愛げなんかなかったというご意見もあろうかとは思いますがあくまで主観であって当人比です)。

そしてこの5年、会社を一時期離れたり、単独行動をして、自分の責任において恥をかいたり、やり直したり、ひと言要求したりするちいさな機会の一つひとつに、少しずつオトナの在り方を学んでいるように思います。自分と他者とを尊重しながら自分で決められるオトナの在り方を。

併せてこの3年、海外のいくつかの都市で感じたのは、若い人のなかにもオバサン的な図々しさがあり、年配の人の中にも茶目っ気や艶があることでした。
オンナコドモとオバサンの断絶を生きなくてもいいことが、とても清々しく感じられました。オトナの男性も女性も、オンナコドモ的な感性をもったまま生きていいと肯定されるような清々しさ。

しかし同時に、活力と人とのつながり、倦怠と孤立に分断されるような大きな格差も感じました。それが教育や経済的な環境の格差によっている部分も大きいように見えます。
オトナとオンナコドモの分断も、経済力の格差が裏打ちしていることを感じます。
経済価値は人の価値ではないし、生産活動や経済的な合理性が何よりも優先されるものではない。かといって、ケア労働の価値を心の中で認めればすべてが解決するという社会でもないところが難しいところだなと。経済的な自立が人権を支える社会であることにも同時に目を向けて、フェアネスを実現することの難しさ。かといって経済価値だけを搾取されるように感じられるとき、労働者の人権が尊重されているともとても思えず。
(すみません、思考が迷走しました。)

たぶん日本に居ても、狭い田舎町でも、一つの会社の中でも、子どもをもたなくても、経験しようと思えば経験できたことなんだろうなと思います。
自分の頭で考えて、失敗しながら決めるちいさな経験を。他者の機嫌や顔色と、自分の存在の尊さは別物であるという信念を。経済的な自立について自分なりに考える機会を。自分の子どもたちを含めた周りの人たちから奪わないために、何ができるかをいつも考えていたいです。

A Spoonful of Sugar 「働き方改革」に加えたい、ひと匙の魔法

In every job that must be done
There is an element of fun
You find the fun and snap!
The job's a game
やらなくちゃいけないどんなお仕事にも楽しめる要素があるものよ。
それを見つけて指をならすの。
お仕事はゲーム。

映画『メリーポピンズ』をレンタルして家で観ました。
昨夏、飛行機の中で『ウォルト・ディズニーの約束』を観てからずっと観たかったので、やっと(^-^)

言わずと知れた名作なんですが、観る機会がこれまでありませんでした。
きっと何かの魔法で今日まで大事にとってあったに違いありません...

Bitter な仕事にひと匙のお砂糖を。 
Just a spoonful of sugar helps the medicine go down
In a most delightful way
ひと匙のお砂糖で、お薬も楽に飲める。
とっても楽しいやり方で。

仕事を楽しくするひと匙のお砂糖ってどんなものでしょうね。
歌いながら巣を作るコマドリ
蜜を味見しながら集めるハチ。
それが仕事を捗らせ、退屈させないことを知っているから。

ウォルト・ディズニーの約束』を観ていたので、このお話はメリーのおかげで仕事人間で厳格な父親が優しくなって子どもたちよかったねのお話ではないんだとわかります。

よく言われるように、「困った人は、困っている人」。
冷たいお金に囲まれて、困っても相談する相手もいないミスター・バンクスには助けがいる。魔法のひと匙が...

ミスター・バンクスがメリーに子どもたちを「甘やかす」なと苦言を呈する場面、"sugar"という単語が使われていたようです。聞き違いでなければ。
もしかしたら、大人も仕事で自分を、他の人たちを、ひと匙分「甘やかす」とたのしくなるのかも。

たのしい気持ち、優しい気持ちを仕事に持ち込んじゃった方が仕事も捗る。
みんな幸せになる。

そんなお話ではないかと思いました。
原作も読んでみようかな。

風にのってきたメアリー・ポピンズ (岩波少年文庫)

風にのってきたメアリー・ポピンズ (岩波少年文庫)

「働き方改革」も「ワーク・ライフ・バランス」も、こんな delightful way で進むといいのになと。
仕事を捗らせるために、自分も他の人も「甘やかす」ひと匙のお砂糖。どんな仕事も楽しく、しあわせなものになる。
どうでしょうか。

たぶんそのヒントは、煙突掃除屋さんと握手すること、セントポール寺院で鳩の餌を売るおばあさんに2ペンスを渡すこと、重役会議で不思議な呪文を唱えること。

ちなみに私、本業ではこの「ひと匙のお砂糖」を研究しています(^-^)

「ジョブ・クラフティング」と呼ばれる仕事の境界の変更が、どんなときに起こって、仕事の経験を豊かにするかを研究しています。
水とパンを、紅茶とケーキに変える魔法のひと匙。

本業外の社会貢献活動(プロボノなど)への参加がジョブ・クラフティングを促進するかも?それはなぜ?ということを調べたりしています。
こちらはまだ途中段階で、今週末も同じ題材で発表してくる予定)

ジョブ・クラフティングとは?
提唱者グループのHBRへの寄稿
ジョブ・クラフティング法
「やらされ感」のある仕事をやりがいある仕事に変える

ジョブ・クラフティングの簡易な用語説明や記事も増えてきましたが、ただどれも私の理解・解釈している範囲では、本来の概念の趣旨と少しズレているように思われます。

がっつり本格派の方は高尾先生のレビューをぜひ参照されてください。

卒園式が泣ける理由

テレワークの日はなるべく休憩を意識的に取ろう!

そのバロメーターとして、つまらない内容でもいいから日記を書くことにしよう~

と思い立ったのが昨年10月。それ以降、お昼に日記を書いたのは3回目なので、あまり自律的なテレワークライフが送れているとは言えなさそうです。がんばろう。

 

というわけで、先週は次女の通ってきた保育園の卒園式でした。

「2回目だから段取りもばっちりだよね!」と先生に言われたり、同じ2人目のお母さんからは「もうこれで保育園来ないと思うと前回より泣けるよね」と言われたり。

私自身が歴史上自分の卒業イベントで泣けない方だったので、今回もどうかなぁ、みんなはどうして涙できるのかなぁ、私の感涙ポイントってどこなんだろうなぁと自分のココロの動きを興味深く観察した一日でした。(素直に泣けばいいのにね)

 

「こんなに大きくなってくれてうれしいよ」

先生方がとっても素敵な式次第にしてくださっていて、証書授与のあとは本人が将来の夢を宣言、そのあと歩いてきて親に証書を渡してくれて親からひとこと、という一人ひとりのためのセレモニーでした。

(こういう先生の心遣いをありがたいと思う気持ちは、素直に感涙ポイントかも)

 

先生が「涙は連鎖しますからね!ハンカチ持ってね!」と式の前に声をかけてくれましたが、私自身はそういうのは割と平気…。涙ながらにコメントする親御さんももちろん多くてうらやましい…。

がんばったね、ありがとう、などの言葉が続く中で、「こんなに大きくなってくれてうれしいよ」と声をかけたお母さんの言葉が印象に残りました。ほんとにそうだなぁ。それがなにより一番うれしい。無事に育ってくれて。自分でものを考えるようになって。

(でもそれは毎日のように感動することだったりもして改めて節目感は薄いかも。)

私は「卒園おめでとう。次女ちゃんが大好きです」と声をかけました。

 

「ずっと見守っているよ」

そうだった。3年前も、私にとって最大の感涙イベントは園長先生の言葉だった、と、先生のお話が始まった瞬間思い出しました。

子どもたちへ。

「先生たちは、みんなのことをずっと大事に思っています。みんなが大きくなって、お父さんやお母さんになるまでずっとずーっと。」

そして親たちへ。

「育児しながらのお仕事は大変でしたよね。泣いている子どもの手を振り切って出かける日もあったと思います。電話が鳴るたびに保育園かな?と思ったり、今日だけは熱を出さないで!と願った日もあったと思います。」

 

先生たちは、私たち親のことも見守っていてくれました。

子どもの健やかさを第一に思う専門家の立場から、私たち親の健やかさをとっても大事に考えてくれているのが伝わってきました。

仕事が忙しくて毎日のように閉園ぎりぎりのお迎えになっていることを園長先生に謝ったときも、しんどい時だね、ママは大丈夫?と声をかけてくださいました。大丈夫じゃなかったから、ちょっぴり泣けちゃいました。

 

3年前を思い出すと、長女の初めての小学校入学を前にして、この後ろ盾を失う心細さでいっぱいだったなぁと。子どもよりも、自分の方が、保育園の存在感に頼って支えてきたきもちを独り立ちさせるのに苦労しました。

(蓋を開けてみれば子どもがすごく頼もしく成長していたし、学童クラブの先生も学校の先生も素敵な人たちで、思ったよりも支えの多い日々でしたが。)

 

失おうとしているのは「居場所」なんだ

先生方は、私の知らない子どもの顔を知ってくれていたと思います。大人とのコミュニケーションや友達との関係も、親がいない場所でしか見せない顔がいっぱいあるはず。そこを知ってくれて、基本的にはよい方向に向かって伸びていくように考えてくれる人が居る。こんなありがたいことはないと思います。私の場合はそのことがそのまま、社会への信頼感につながったし、子育てを楽しいものと感じる気持ちにつながりました。

ただただその子の個性、持ち味や偏りを知ってくれている人がいるということ。その場でしかうまれない関係性があるということ。そういうのが「居場所」なんだなぁと。

 

形式化された知識やスキルの教育は「買う」こともできるけれど、「居場所」はそうじゃない。こういうありがたい場所や関係性が健全にあり続けるために何ができるかを考えながら、お金を払ったり、感謝やうれしいきもちを伝えたり、意見を言ったり協力したりしていきたいなと思いました。

 

「居場所」、大人にも必要ですよね。仕事上の役割や、家庭での役割を脱いで、素の自分をみてくれる人や出せる場所。もしかしたら完全な「素」は難しいので、いくつもの顔で、他の場所での役割からは「はみ出す」ような自分でいられる場所を複数もてるのが幸せなのかもしれませんね。これからの平均寿命100歳ライフで、関係性は資源ではなく、目的になると思います。

 

改めておめでとう

そんな不純なことを考えながら、卒園式、謝恩会と一日過ごした次女ちゃんとの帰り道。

担任の先生が、どんなふうにこの一年間、子どもたちに語りかけ、働きかけ、クラスを創ってくれたかも、折に触れて話を聴いてきたので知っていました。

そして、謝恩会の合間にお話をして、そんな先生との関わりで昨年の4月から最近にかけて彼女の発する言葉が変わってきたこと、それでも変わらない彼女のスタイルに「負けた」と思って先生の方が学んだこともあったともお聴きしました。

そうだよね、次女ちゃんが自分で努力した末の卒園ではないけど、この一年の、そして園に通った五年間の、一期一会の成長があったんだよね。と。

そんな帰り道。

なんだかしみじみと、卒園っておめでたいことなんだなぁという気持ちが湧いてきて。

 

彼女は先生たちのそんなありがたい関わりも、先生はこわいとこもある、くらいでたぶんよくわかってなくて。ずっと心のどこかで覚えてくれていて心では見守ってくれるとしても、先生にはたぶんもうなかなか会えることはなくて。そして彼女は多くのことを忘れてしまう。

卒園ソングが泣けるのはそういうことかもしれないですね。忘れないよ、と歌っても、彼女たちは忘れてしまう。そのことを温かく知っている大人だから流れる涙。

 

次女ちゃん、改めて「卒園おめでとう」。心から(^^)