自立と依存の微妙な関係について
「自立」と「依存」について。
考えるきっかけがいくつか重なったので。
先週「ツールのこと」という投稿をしたときに、
『ひとに依存するということは、みずから自由を制限すること。』
と書きました。
これは本心ですごく実感していること。
でも一方で
『多くの人に依存することが自立すること』
という風にも思うんですね。同時に。この謎についてちょっと考えます。
「誰か(何か)に依存しないと、自分がない」
「誰か(何か)に依存するけど、自分は自分」
「誰か(何か)に依存することで、自分になる」
この3つの違いとその境界のあいまいさなのかなぁ。
『誰か(何か)に依存しないと、自分がない』
決める基準や自分が存在している意味を、誰かや何かに預けてしまうと、その誰かや何かが消えてしまったら自分も消えてしまうような気がしてすごくこわいです。
(妻が居なくなったらお茶も入れられない、夫が居なくなったらネットにもつなげない、そういうレベルでもありますけどw)
だから、なるべくひとりで居られる自分で居たい。そんなわたし。
『誰か(何か)に依存するけど、自分は自分』
一方で「不完全力」とかそういうことも大切だなと思っていて。
苦手なことやできないことのある自分を受け入れて、ありのままの自分で周囲と関わる覚悟をする。
仲間に入れてっていう。
助けて~っていう。
そういう覚悟をすること自体だったり、不完全な自分を認めても大丈夫という状態だったり、それはすごく自立しているということだなぁと思う。そんなわたし。
『誰か(何か)に依存することで、自分になる』
「不完全力」な自分で世界と関わって、そこでより深い呼吸ができるようになれば、それが新しい"自分"になる気がする。
ひとつには、自分という小さな存在よりも、もっと大切なもののために、自分を解放すること。あえて不完全な存在であることを選ぶこと。
ライフネットの出口社長のいう「世界経営計画のサブシステムを担う」ようなこと。大きなシステムの一部として、自己というシステムを開くこと。
もうひとつには、誰かと一緒にいると、何かに取り組んでいると、そのときだけに表現できる自分があると感じること。
以前twitterでこころってなに?について考えたことがあるけど、
ココロロン ttp://togetter.com/li/498139
表現されるのを待っている曖昧な自分、が居るような気がしてて。
フロムさん流に言えばそれは「愛」かもしれない^^
与える対象、表現する対象があることで確認できる自分の生命力みたいなもの。
読書メモ『愛するということ』(エーリッヒ・フロム) http://togetter.com/li/506021
それでもやっぱり微妙。
自立自尊と他力本願のあいだ。そんな感じ。
何かに依存しても大丈夫な自分、も
依存することで表現されることを待っている自分、も
簡単に、ひとりではいられない自分、になってしまいそうな怖さかなぁ。
裏返せば、他力を失う怖さなのかもしれませんね。
でもね。ほんとはわかってます。
スナフキンとムーミン谷の住人達みたいに、自分は生きていけるって思います^^
消えてしまうことにこだわるほどの"自分"は本当はいなくて、何かに生かされているその瞬間だけの曖昧な"自分"の方が本質だ、と思うほうが、わたしは自分のことを好きになれそうです。そんなわたし^^